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幼少の頃の思い出 色違いの靴下
夢見る少女で、空想の中に半分住み着いたような、現実的なところのない子供だった私。
マンガを見ればその中に生き、ベルバラにかぶれると、いつか自分はオスカルの如く美しくなれる気がしていた。心を熱く燃やしたアニメや映画、ドラマは数々ある。

例を挙げると…

くれくれタコラ…生まれて初めて入り込んだテレビアニメ、15分くらいの短いアニメで、何でも“くれくれ”と私も真似をした。

ムーミン…スナフキンがとにかく好きで、その孤独な旅人にいつか会って一緒に旅をするものだと信じていた。

銀河鉄道999…私は孤独な旅人、鉄郎なのだと思い込み、メーテルを愛した。

E.T…1人で森の中に入り、空を見上げては、E.Tが下りて来るのを真剣に待った。もう中学生になっていたにもかかわらず。

エースをねらえ…憧れて憧れて、中学時代の剣道を我慢して続けた後、高校一年にやっとで軟式テニス部に入部、一年間ネットに向かってボールを打っただけで辞めた。

麒麟館(きりんかん)通り…学校の先生と生徒の恋愛だったと思うが、自分も学校の先生に恋していたのでかなり本気になって読み漁った。

まだまだ山のようにあるはずだが、パッと思い浮かばないので、これくらいにしておこう。とにかく、好きになると、その話の中に自分が入り込んでしまうのだ。この癖は、大人になってからも変わらずで、ジュリアンロバーツのプリティーウーマンを見て感激すれば、すぐにチリチリパーマをかけては、短いスカートにロングブーツを履いて街を闊歩したものだ。彼女が映画の中で、娼婦だからあんな格好をしていたことも構わず、だ。また、ロードオブザリングを読んで感激すると、自分はまるで美しいエルフのような気持ちがし、実際に映画を見て初めて、自分はエルフよりは、断然ホビットに近いことを知らされた。
いつも誰かになりたい症候群、と自分では呼んでいる。
そんな私が、小学校低学年の頃。テレビのアニメで、題名は忘れたが、主人公の魔法使い(だったか不思議な力を持った)の女の子がいつもミニスカートやオーバーオールの裾を上げて、縞々(しましま)の長靴下を履いていた。その靴下は、両方が違う色だったのだ。それが私には、とてもセンセーショナルに思えて、即刻、真似た。色違いの縞々の長い靴下を二足調達すると、一足づつ違う物を履いて、オーバーオールを着た。そうして髪を後ろで2つに縛り、1人で近くの寺(公園にもなっていてブランコなどがあった)に赴いた。その格好には、どうやらこれを持つととても似合う、と思い、出掛けにある小物をポケットに押し込んだ。公園では、いつもブランコや滑り台をするくせに、その日の私は、そんな子供ではなく、ちょっとお洒落なお嬢さんなのだ。周りの子供の目を気にすることなく、公園の周りの柵に片足をかけると、何とも自分がクールに思えて溜まらなかった。ポケットからさきほどの小物を取り出す。真っ赤なリンゴだった。キャンディーズが歌っていたではないか。♪まあぁっかな、林檎を、ほぉばるう♪真っ赤な大きなそのリンゴを、オーバーオールの膝で磨くと、きらりと光った。そして、前歯でシャリっと噛む。
あぁっ!かっこいいぃ! この日の姿は、今でも他人にはどう映っていたかはわからない。
でも、後日、同じ格好で小学校に行く途中、集団登校でいつも私を“たまご、たまご”と苛めていた年上の女の子が、登校中ずっと“ちぐはぐな靴下履いたバカ”などと言っていたので、学校に着いた頃には泣き出し、それっきりもうその靴下は履かなくなってしまった。大人になると、子供の心が読めなくなるものだ。大人の目から見て、子供が、何故こんな動作をするんだろう?何故、こんなことにこだわるのだろう?と、大人の心からは考えがつかずに、かえって苛々してしまうこともよくある。だけど、子供の動作や行動には全て理由がある。しかも、大人が長年の生活の中で“これは普通”として身に付けた事ではない、子供の自由な独創と“普通”に縛られないプライドから、その理由は子供なりの長い時間と工夫を凝らして来ているものだ。大人にわからなくって当たり前、でも、その個性の芽をあっという間に摘み取るのも、大人には簡単なことだ。その時の私の格好を見て、大人は何も言わなかったと思う。そういう両親を、今思うと、凄いなって感謝もする。もしかしたら、何も、言えなかったのかも知れない…それは哀れみだったのだろうか…?

ふううむ。
幼少の頃の思い出 色違いの靴下_c0027188_6463752.jpg

by yayoitt | 2005-02-25 06:43 | 思い出
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