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故郷の犬 愛ちゃんの話
愛ちゃん は、近所にいた柴犬で、その時はもうおばあちゃんだった。

愛ちゃん のご主人のおうちは立派な門構えで、いつもテレビの音や綺麗な若い娘さんが出入りする姿もよく見た。

愛ちゃん のおうちは、立派なおうちの勝手口の横にあった。

それは小さな犬小屋で、書かれた 愛のおうち も殆ど読めなかった。

愛ちゃん のそのおうちの中には、擦り切れたダンボールが一枚だけ敷かれていた。

マイナス25度にもなる真冬の朝でも、愛ちゃん は、ダンボールの上に丸まっていた。

愛ちゃん のうちの周りは、かびかびに乾いたウンチと、昨日しただろうウンチと、そしてオシッコの跡が沢山あった。

愛ちゃん は長い紐で繋がれていた。

思いっきり紐を引っ張り、前庭に綺麗に敷かれた石の上に、よく 愛ちゃん は登って遠くの田んぼやらを見ていた。

でも、愛ちゃん は両目が真っ白で殆ど何も見えなかった。

でも 愛ちゃん は、そうやって何年も、その石の上で、春の風や夏の日差し、秋の星座や冬の痛みを感じていた。

愛ちゃん のおうちの側には、ステンレスの入れ物が1個転がっていたけど、そこに綺麗な水が入れてあることはなかった。

家の中から、お母さんが家族を呼ぶ声がすると、愛ちゃん は見えない目で勝手口の方をジッと見つめて待っていた。

尻尾を思いっきり振って、期待通りに出て来た綺麗な娘さんは、愛ちゃん がいないかのように出て行ってしまう。

愛ちゃん はその後姿を、また紐を一杯に引っ張って、石の上に座って見つめた。

一度、散歩中のノーマンが、愛ちゃん の側まで近付いた時、愛ちゃん は精一杯の感覚を働かせたのか、ウウウウ っと唸ったことがあった。

冷たく、暑く、雪が積もり、日差し避けもない、毛布もない、柔らかいブランケットもない。

でも、愛ちゃん にとっては、そこだけが彼女の一生の唯一の居場所だったのだ。

長い飛騨の冬が融けかけた頃、マイケルが私に言った。

 “ 悲しいことがあったよ、愛ちゃんの家が、なくなってた ”

急いで、公園の向かいにある愛ちゃんのおうちに行ってみると、いつもそこにいた 愛ちゃん がいなかった。

おうちもダンボールも、お水のボールも、ウンチも、そしてオシッコの跡さえも、そこには残っていなかった。

呆然と立ち尽くしていると、立派な玄関の戸が開いて、上品そうなおばさんが出て来た。

おばさんは言った。

 “ いつも、かわいい犬とお散歩しとるよねぇ~、あ、愛ちゃんな、逝っちゃったんや、おばあちゃんやったの 

その日の散歩道に、まだ白い雪をかぶった乗鞍岳を見つめながら、愛ちゃん を思った。

いつか、愛ちゃんもこの景色を見ただろうか?

より遠くを見ようと、首を伸ばして石の上に座っていた愛ちゃんには、どれくらいの世界が見えたのだろうか?
故郷の犬 愛ちゃんの話_c0027188_663928.jpg

by yayoitt | 2006-05-11 05:33 | 迷い犬、犬のこと
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