私は、母や伯父や伯母、従妹たちと共に、朝食の為に向かった。
そのホテルのレストラン。 呉服屋を営んでいる伯父夫婦が親戚家族を旅行に連れて行ってくれた。 年に一度、夏休みの真っ盛りの3泊4日。 その頃、ホテルに宿泊することなんてなかった田舎の家族たち。 子供が10人ほどにもなる。 1人の伯父は、八ミリを掲げて、その様子を撮っていた。 私は5歳くらい。 2人の姉も一緒で、他の従妹弟よりもずっと年上の彼女たち。 いつも誰か、小さい従姉妹の手を引いていた。 その旅行の為に、母が奮発してくれたワンピースと、手提げのハンドバッグ。 細い素足に、スパンコールのサンダルを履いて。 朝ごはん~ 朝ごはん~ バイキングやって~ と、そのバイキングという音の響きに昂奮していた。 白いビーズが沢山に縫い付けられたハンドバッグには … ハローキティーのハンカチと、母に預かった正露丸が入っていた。 喜び勇み、従姉妹たちと競うようにしてエレベーターを降りた2階。 足がすくわれそうなフカフカの絨毯が敷かれてある。 バイキング~ バイキング~ かあちゃん、はらいっぱいに、食おうな~ スキップをしながら、ハンドバッグを持った右手を、ブルンブルンと振る。 嬉しくて仕方がないのである。 肩からぐるぐる回されたハンドバッグ。 と、突如 … 大きな音と共に、そのハンドバッグの重みが変わった。 何の音かと、辺りを見回すと … 私のハンドバッグのマグネットの口が開いて、中身が外に飛び出したのだった。 ハンカチはバッグの中に入ったまま。 けれど、正露丸の黄色いパッケージの筒がなかった。 それは壁に激しくぶち当たり、ふたが開いて、正露丸がボロボロと散っていた。 重厚な絨毯の上に、すべての正露丸が散っていた。 と同時に、正露丸独特の、強烈な臭いが鼻を突いた。 そんな贅沢なホテルが初めてなのは、母も同じで …。 何があったのか? と理解するまでに時間も掛かった。 母が、あっと声をあげるのと同時に … 背筋を伸ばした白い三つ揃いに黒い蝶ネクタイのホテルマンが現れた。 私と母が、立ち尽くしている間 … そのホテルマンは、背筋を伸ばしたまま、鼻を くんくん とさせた。 その くんくん する様子は、まるで漫画のようで。 まるで、目が見えないのに鼻は利く、という人のように … くんくんくん … くんく … ! と自分の白い革靴の足元に顔を向けた瞬間に、動きを止めた。 すでに、母と私はすっかり恐縮して、そっとその場を立ち退き始めていた。 知らぬ顔をしながら、母と一緒になってレストランへと向かう。 けれど、気になって振り向くと … 背筋は伸ばしたまま、腰をかがめているホテルマン。 右手で、正露丸のひとつを摘んだらしく … その人差し指と親指で摘んだものを、じつに丁寧な動きで、鼻へと近づけた。 母に手を引かれて歩きながらも、目が離せなかった。 怒られる怖さなども吹き飛んで、彼がどうするのかを見たかった。 真っ黒の髪を綺麗に七三に分けた若いホテルマン。 鼻に近づけた瞬間 … うっ と小さな声を上げ … ほんとうに、一瞬だけ … その白い肌の顔を、思い切り歪めたのだった。 その歪みは、子供心にも ものすごい変化 で見事だった。 それが見えただけ。 あとは、どうしたのか、どうなったのかは知らないけれど。 私も母も、きっとバイキングの間中、エレベータの前の絨毯を気にしたのだろう。 気にしながらも、様々な料理に昂奮したのだろう。 そして、ホテルマンは … あの母娘だな … と、ちゃんとわかっていたのだろう。 我が家では、正露丸が登場すると、いつもその時の話になる。 ちょっとだけ尾びれがつきながらも、母と私の記憶は一致する。 先に食堂に入った従姉妹たちも伯父や伯母も知らない、母と私の秘密である。
by yayoitt
| 2011-10-12 04:56
| 思い出
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