懐かしき銭湯
高校に入るまで、うちには風呂がなかった。だから、近くの銭湯に、子供の頃なら2日か3日に1回通った。銭湯に毎日行くようになったのは、ちょっと色気づいて、好きな男の子が出来た頃からだ。銭湯の思い出は、独特のものがある。
私と家族が通っていた銭湯は、家から歩いて60歩ほどのところにあって、毎晩、特に夕食後は、とても混んでいた。入り口から男女別々で、夏にはドアは開けっ放しで、大きな湯と書いた暖簾(のれん)が風に揺れると、外からは、玄関の上がりたてにある更衣場で、着替える裸の人が、はっきり見えたものだ。入り口を入ると、女性側からは右手、男性側の入り口からは左手の高い所に番台がある。そこには、いつも、その銭湯を営む家族のうち、おばあちゃんか、おばさん、又は、娘(年頃の)が座っていた。今思うと、年頃の若い娘にとって、その番台は、結構、難しいものだったろう。番台からは、更衣場が、全て見渡せるから、男の人の裸を常に見る事となる。番台には、小さなテレビが置いてあり、彼女らは、いつもテレビで、“8時だよ全員集合”など見ていた。番台の、そのテレビの横には、小さなナイロンの入れ物に入ったシャンプーが20円ほどで売ってあった。他にも、あかすりや、かみそり、石鹸も用意してあった。その頃、余り、リンス(コンディショナー)という物には面識がなく、いつもシャンプーだけしていたが、髪がばさばさになることに気が付いたのは、やはり、私自身年頃になり、サラサラの髪を意識し始めてからだった。風呂代は、幾らか忘れてしまったが、髪を洗う場合は、プラス数十円払わなければならなかった。銭湯は、外まで、石鹸のいい匂いがしたが、実際に中に入ると、髪の毛が詰まっていたりして、数箇所ある排水溝の周りは、臭かったりもした。
ケロリンと書かれた黄色い桶(おけ)があり、始めは、座る椅子はなかったので、タイルの上に正座して、身体や髪を洗っていたと記憶する。シャワーが取り付けられたのも遅い時期で、コの字に陳列する洗い場には、赤の“湯”と書かれた蛇口と、青の“水”と書かれた蛇口、
そして何々商店、と、その下に書かれてある鏡があるだけだった。風呂場の真ん中には、冷たいタイルで出来た、背を向けて取り付けられた洗い場が4つあり、このうち、2つは、お尻を湯船に向けて座る格好だったので、私は嫌っていた。湯船は、2つに分かれて並んでいたが、片方が少し深いくらいで、お湯の温度などにさほど差はなかった。それでも、深い方(おっきい人の)は、新しい湯が入って来て、浅い方(ちっちゃい人の)には、水の蛇口があった。
湯は、いつも熱かったので、私はちっちゃい人の湯船に、まず水で少し埋めてから、そろそろと入った。シャワーが取り付けられるまでは、蛇口から熱い湯と水を、ケロリンの桶に入れて、何回も頭からかぶって髪を洗った。私は、物心付いた頃から、濡れた床が嫌いで、タイルの上をいつも、爪先立てで歩いていた。また、隣から流れてくる汚水や髪の毛が気持ち悪く感じて、目をつぶって、なるべく見ないように計らった。排水溝の隣の洗い場に座るのは極力避け、込み合っていて洗い場が開いていない時は、ジッと湯船で息を潜め、潜水艦からジーッと、狙った洗い場を見つめる、湯だったタコと化していたものだ。湯船の中からは、色々な背中が見えた。太った背中。骨ばっかりの背中。曲がった背中。縫った痕のある背中。それぞれの人生を刻む背中。熱いお湯から上がって、真っ赤にゆであがった私の背中は、まだ平らで小さかった。学校で、家で、外で、色々な楽しい、悲しい思いをしながら、その湯船から、大人の背中を見つめ続けていた。ケロリンの桶がタイルに当たる音、お湯が蛇口から噴出す音、誰かの咳払い、音は全て、湯煙の膜の中で反響してこだまし、まるで遠くから聞こえる様であった。時には母と、時には姉と、時には向かいのあけちゃんと入る風呂は、楽しかった。1人の風呂は、リラックスなどとはほど遠く、孤独と縄張り争い(自分ひとりで、勝手に使いたい洗い場を狙っていただけだが)、煮えた熱い湯との格闘、苦悩の方が大きかった気がする。濡れたまま更衣場に出ると、髪を洗っていないのに、湯気で濡れた髪を、番台のおばさんが見ている気がして、いつも、わざと頭をタオルで拭かずに、濡れたまま、うつむいて“ありがと”を言い、寒い夜も、飛んで家に帰って行ったものだ。
銭湯には、長年の私の思い出が一杯、詰まっている。いつの間にか、その銭湯はなくなってしまった。町にあった2、3件の銭湯は、全く姿を消してしまった。あの暖簾(のれん)も、あのこだまする会話や水の音も、ケロリンの黄色い桶も、もう、そこにはない。
# by yayoitt | 2004-11-25 00:47 | 思い出 | Comments(0)
スコットランドのサザエさん
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サザエさんは、長年、日本人に愛されてきた、そして今の子供達も知っている漫画。
スコットランドにも、サザエさんの如く、長年、そして、現代の子供達にも愛されている漫画がある。同じ漫画家によるもので、2つの作品である。1つは、子だくさんの家族を描いたもの。もう1つは、ウィリーという男の子が主人公のもの。
前者は、THE BROONS で、BROWN家を描いたもの。
スペルが OWN ではなく、OON になっているのは、スコットランドの発音で、ブラウンを、ブルーン、と言うからである。 
後者は、OOR WULLIE で、WILLY(WILLIAM)という男の子の話。
これも、正しくは OUR WILLY であるが、発音が アオァ は、ウール、ウィリー は、ウリー となるからだ。漫画は、年に1度、出版されている。
初版は、THE BROONS で1939年、128ページにも及ぶマンガ本。
現在では、なかなかこの初版を手に入れるのは難しく、値段的に、£2,000から£3,000(40万円から60万円)はするらしい。クリスチャン(カトリック)独特の大家族(子供が多い=避妊をしないので)で、お父さん、お母さん、背がひょろひょろ高い息子、がっしりした息子、器量の悪い太った娘、とっても綺麗な娘、賢い息子、双子の男の子、そして一番小さい女の子の、10人家族。別に暮らす、お父さんの父親、おじいさんもいる。このおじいさんは、時々、OOR WULLIE にも登場する。翌年、OOR WULLIE の初刊が出版され、96ページに及ぶ。WULLIE は、お父さんとお母さんの3人暮らしで、いつも、ダンガリー(胸当てのある吊り下げズボン)をはき、とっても元気で、いたずらな男の子、ペットにねずみを飼い、庭には彼のお気に入りの椅子(バケツをうつぶせた)があり、どのストーリーも、最後は、彼がそのバケツに座って一言何か言う、という風で終わる。両方とも、住まいはフラット(アパート)で、行事があるとキルトを着たり、ケリーを踊ったりと、スコットランドの様子がよく現れていて、興味深い。
この漫画の生みの親は、DUDLEY DEXTER WATKINS(ダドゥリー デキスター ワトキンズ)。1907年 イギリスはマンチェスターに生まれるが、18歳の時に、家族とスコットランドのダンディーに移住した。彼は、グラスゴーのアートカレッジに通い、その恩師の勧めで、ダンディーにあるD.C.THOMSON という出版社を紹介される。そこで、6ヶ月という期限付きの契約で、新聞のイラストを描きはじめるが、短期間の仕事の予定が、結局、彼は1969年に他界するまで、このダンディーで過ごすこととなる。
ダンディーは、3つの“J”で有名、と言われていた。
1. JAM ジャム
2.JOURNALISM ジャーナリズム
3.JUTE ジュート(米袋などに使われる繊維)
私の旦那はダンディー生まれで、月に1回は、彼の両親の所へ行くが、昔は栄えたであろうその街も、時の流れと共に、産業が落ち込み、大分、静かになってしまったようである。
今もなお、毎年、このマンガ本は、1年に1回、クリスマスの頃に発売される。誰が受け継いでいるのかは知らないが、多分、そこも、サザエさんのようなものだと思われる。私も、実は、毎年クリスマスのプレゼントに、このどちらかを、旦那のおっとさん、おっかさんから頂く。
漫画は、4コマではなく、A4紙1ページに及ぶもので、話し言葉が、全部スコットランドなまりで英語で書いてあるので、最初は、余り意味がわからなかった。でも、声を出して読んでみると、それは、まさしく、スコットランド訛り、になるからおもしろい。これで、かなり私のスコットランド語の勉強に、役立ったことは確かだ。
# by yayoitt | 2004-11-24 00:50 | 英国暮らしって... | Comments(0)
耳が燃える?
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仕事中に、隣の店(同じ会社で、同じオーナー)に用事があり、立ち寄った時のこと。
店には、お客さんは誰もいなかったが、従業員の男の子1人と、最近マネージャーとして仕事を始めたばかりの男の子が1人、向かい合って、配達された品物の整理をしていた。
私が店に入って行くと、2人が私を見て、笑顔でこう言った。
WERE YOUR EARS BURNING?直訳すれば、“あんたの耳、燃えてなかった?”
もちろん、私の耳は、無事だ。英語のこの表現は、うわさ話の時に使われる。
意味は、“今ね、あんたの噂をしてたんだよ!”という意味。
そう言われた私であったが、もし悪い噂をしていたのなら、きっと、私が入って来た時、シーンとなって、“ハロー、やっこ!”とでもごまかすだろうし、わざわざ本人に、今あんたの噂してたの”とは、笑顔では言わないはずだ。私は、“全く、なんて言ってたのよぉ”と言いながらも、別に真剣に知りたい訳でもなかった。多分、先週の、毛糸のパンツの話でもしてたに違いないから。いじめられっこ、泣き虫の子供から、道化師へと生まれ変わり、人を笑わせることに懸命になっていた私は、20代の頃迄は、他人のする自分の噂が、気になって気になって仕方がなかった。でも、30代に入って、他人の噂は、ほとんど、どうでもよくなって来た。
そのくせ、旦那と誰かが、私のことを笑いながらコソコソ話してそうだと、“鼻なし?”“不細工(ぶさいく)?”“顔がまん丸?”“おつむが今ひとつ?”何言ってるんだろう??と気になり、後で旦那をしつこく追及したりもする。となり、自分の耳に、目に入らない限り、誰かが自分の噂してても、平気…。人並みに、気にもするが、気にもしない、のだ。
この 噂 の現場を、英語で表現してみよう。

*** やっこの、奥様劇場 ***

若い男 : DID YOU HEAR THAT YAKKO WAS WEARING GRANNY’S   KNICKERS YESTERDAY?
まずまず若い男 : WELL, I KIND OF KNEW SHE WAS A WEIRDO. 
BUT…DID YOU SEE THEM?
若い男 : OH,YES.IT WAS NIGHTMARE!
まずまず若い男 : EEEK!
 ♪CLICK♪
まずまず若い男 : PSSSSS! 
若い男 : OOOPS, HERE COMES THE DEVIL. 
やっこ : WHAT ARE YOU TALKING ABOUT?
男両方 : HAHAHA! SPEAK OF THE DEVIL!!
やっこ : TALKING ABOUT ME??
♪TARAAAAAAN♪

   日本語訳

若い男 : やっこが、昨日、ばあさんパンツを履いてたって、知ってる?
まずまず若い男 : うーん、あいつ、なんか変わり者ってことは知ってたけど。
でも … お前、見たの?
若い男 : おお、見たよ。もう、ありゃぁ悪夢だよ!
まずまず若い男 : うえぇぇぇ!
 ♪ガチャ♪ (ドアの開く音)
まずまず若い男 : シィ――――! 
若い男 : おっとぉ,噂をすれば…だな。 
やっこ : あんたら2人、何はなしてんの?
男両方 : ははは!噂をすれば影、さ!
やっこ : あたしの話し、してたんかい??
♪チャンチャン♪
# by yayoitt | 2004-11-23 00:54 | English | Comments(0)
日本の友人に、感謝! 其の2
今年の6月25日に、旦那より2週間遅れて、スコットランドにノーマンと到着。
グレーの空、よく見慣れた空だった。厚い雲の層が、勢いよく流れる、感じ慣れた風を受けた。独特の方言で笑い合う人々、静かだけどいつもどこからか聞こえる喧騒。
黄色い電灯に映し出される、古い建物の並。帰って来てしまったんだ。
これが、私の最初の言葉、溜め息と共に漏らした。
日本での最後の夜は、成田で、田舎から両親と姉が見送りに出てきてくれた。
4人で空港敷地内のホテルに宿泊して、空港近くの高級ホテルに夕食にも行った。
初夏と言えど、毎年暑さは厳しくなるので、この日もジリジリ、暑かった。
年老いた母と父、田舎から電車を乗り継ぎ、何時間もかけて、来てくれた。
真ん中の姉も、飛行機で、富山から子供と旦那さんを家において、来てくれた。
肩の出たテラテラっとしたサマードレスに、サンダル、暑くても、気持ちが良かったし、夕食のホテルは、冷房が効いて寒いくらいで、そこに長袖を羽織らないと、すぐにくしゃみが出た。
4人で笑って、馬鹿な話をし、食事を楽しみ、そして来年、もしくわいつか絶対にスコットランドに来ると、母と父、姉は私に約束をして、何となく4人とも静かになってしまったものだ。
翌日、朝早くの飛行機で、私は日本を発った。
あいにく、空港が人で込んでいたのと、ハリーポッターのロン役の男の子の到着と重なり、
私は、母と抱き合い、父と抱き合い、姉に笑ってピースをしてビデオを撮ってもらい、誰かの顔が、崩れてしまうその前に、背中を向けて人込みに紛れることが出来た。
その瞬間から、日本での忙しさ、多くの別れ、葛藤、全てが吹っ切れたのだ。
それでも、飛行機の中で、平行飛行に入った頃から涙が止まらず、斜め後ろにいた、日本人ツアーの添乗員らしき若い女の子に、“すいません、荷物とらせてもらっていいですか?”と、声をかけられるまでずっと泣き続けた。
スコットランドに到着。バスで街の中央まで出る。すぐに見慣れてしまうほど、馴染んだ景色だった。右手にお城を眺めながら、街の中央を走るバス。帰ってきたことに、ワクワクもしたが、もう悲しくはなかった。日本を離れて、少しの間泣いて、私の心はもう、前向きになっていたのだ。懐かしいフラットに着くと、旦那と、先に到着していたノーマンが待っていた。
旦那が作ってくれた夕食を食べ、熱いコーヒーを飲むと、生活が、始まった。
私は、今回の渡英に際し、モットーを立てていた。
“自分に嘘をつかない、我慢しない、自分らしさを守る”前の3年間で、好きでもないお酒に付き合ったり、興味が余りないのに、話の種にと無理して新聞で得た知識だけで、クリケットを語ったり、こういう無理をやめよう。嫌いなものは嫌いだし、興味が無いものは話題に無理に出さない。いわゆる、私の中での開き直り…でも、これは、私自身をこの海外生活から守る、大切な盾(たて)となったのだ。そして、日本と交わりを持つべく、インターネットに時間を費やした。日本に残してきた家族と、友人と、一杯メールで話しをした。その時の私は、それを欲していたから。そして、何とかこのページを作ってみた。(知識が無いので、このままなのだが)
検索して、海外に住む、英国に住む、スコットランドに住む、日本人のホームページを探し回り、エーデインバラに住む日本人のホームページも探して、そうして、1人の日本人女性と、コンタクトを取ったのが、この夏。私がここに来て、まだ1ヶ月ほどの時だった。
彼女は素敵なウェブサイトを立ち上げていたので、何回も何回も、毎日立ち寄り、そして、偶然にも、お互いの家が近いことをきっかけに、実際にお会いすることとなったのだ。その、私としては初体験の、インターネットを通じての誰かとの出会いに、感動するやら、のぼせるやら、浮かれていた。そして、たった1ヶ月日本を離れていただけでも、自分がどれほど、日本人の人との接触を欲しがっていたかが、しみじみと、わかったのだ。この出会いを通じて、新たに、もう1人の日本人女性と出逢った。それぞれ、パートナーとは一緒でも、親や兄弟姉妹がここにいない、それなりに知人は出来ても、心を許す親友は、日本にいて会えない、沢山の共通点があり、すぐに仲良くなったのだ。今でも、何かと一緒にお茶してみたり、先日はパーティーに招待されて、旦那とすっかり居座って、ゲラゲラ、ガハガハ笑い、旦那などすっかり酔っ払って、夜中に数回、ゲーゲー(失礼)したほど、楽しく飲んだのだ。キッチンに何となく日本人だけが集まると、日本のテレビの話をしたり、日本のギャグで大笑いしたりもした。
その夜は、新しい日本人の友人もできた。私は、飾らず、自分の言葉で、ギャーギャー喋っては笑える、この空間を、この上なく愛している。どれは、毎日ではないけだけに、確実に、心のオアシス、となっているのだ。同じ文化、同じバックグラウンド、同じ笑いのセンス。
これらを共有することは、人間、生きていく中で、欠かせないものなのだ、と今わかる。
5年半前にここに到着した私は、これを、自ら避けて生きていたのだ。
本当は、欲しくて欲しくてたまらなかったのに、自分をごまかし、嘘をつき、他の仮面をつけて、ここで、自然に暮らそうとしていたのだ。こんな不自然な生活が、続くはずはなかった。
あの時の苦しさ、切なさ、寂しさを経験して、今回のこの生活が始まって、本当に良かったと思う。私は、愛する日本の人々なしで、この自分の生まれ育ったのとは到底違う国で、明るく生きていけるほど、強くもなく、自立もしていない。常に誰かの助けが欲しい、1人だと、気楽ではなく、気悲(作った字です)な人間なのだ。そのことに、今更、嘘は付かない。この正直な自分を抱えて、この国で、ゆっくり長く、旦那とノーマンと一緒に生きていくんだ。
そして、愛すべく、日本人の友人達と。
# by yayoitt | 2004-11-22 00:59 | 英国暮らしって... | Comments(2)
日本の友人に、感謝! 其の1
今から、約5年半前に、初めてスコットランドに引っ越して来た。
オーストラリアで20ヶ月を過ごしたものの、本格的に生活するという形での、海外渡航は初めてであった。旦那とはその1年半前に日本で結婚しており、旦那と2人、彼の生まれ育った国、そして、彼の青春時代を過ごした街での、私にとっては、何もかも新しい生活の出発であった。正直、かなり焦ってもいたし、神経質にもなっていた。特に、自分の英語力に対して、不安で仕方がなかった。オーストラリアでは、英語を学ぶ学生という立場で生活し始めたので、実際に1人で外に出ても、物を買うにも、トラムに乗るにも、多少の英語の間違いは、平気だ、と自分の中で決め込んでいたのである。英語でトラブルがあっても、学生にとっての間違いは、いい経験!と、すっかり学生生活を満喫することに専念していた。そして、時間的にもリミットがあったので、いずれは日本に帰る、という、心に余裕があったのだ。この心の余裕は、怠惰を生み出してしまっていた。日本に帰れば、これくらい英語が喋れればたいしたものさ!という、悲しい諦めと自信で、自分の可能性を抑え付けてしまっていた。また、何でも、旦那に聞けば大丈夫!という、安心感もあった。
オーストラリアに、旦那と2人で見切りをつけ、日本に帰った。
1年半を2人で楽しみ、一生懸命に働き、1999年、スコットランドへの移住に踏み切ったのだ。スコットランドで私は何をするのか?英語を学ぶ、学生ではない。旦那と2人、生活していかなくてはいけない。働かなくてはいけない。いずれ、それは平凡な生活のひとこまになり、毎日を、サラッと、平気に過ごせるようにならなくてはいけない。生活に対しての、プレッシャーを生み出した。スコットランドに到着し、英語の壁だけではなく、カルチャーの壁と気候の壁、旦那の家族との壁など、色々な壁を、肩に力を入れすぎたお陰で、沢山作り上げてしまった。焦っていた。生活がぎこちなく、自分の家にいても、そこは外国の、独りぼっちの蚊帳の中。自然な自分を見失ってしまったのだ。特に、英語に対して、かなり不安があり、悲しい選択をしてしまった。“よし。日本語を生活から取り去ろう。日本人との接触を持たないようにしよう。”街のホテルは、レストランでの仕事は、とっても楽しかった。何もかも初めてで、必死で、夢中で、自分の思いを振り払い、現地の人との付き合いなら、どこへでも行った。常に自分を高い所に持ち上げて、心が、“嫌だなぁ”と声をあげても、知らん顔をしていた。お酒が飲めない上、パブへ行っても、会話が聞こえないし、楽しめないのに、毎週金曜日には、仕事帰りに同僚に付いて、パブへ行った。会話がわからず、それでも付いて来た以上、ニコニコして頷(うなず)いたりして。同僚が楽しくお酒を飲む間、何倍もレモネードを飲み干した。
…同等な、仲間でいたかったのだ。そうして、疲れて、落ち込んで、家に帰る。
それでも、旦那には、誰がこんなこと言ったとか、誰はいつ結婚するそうだとか、楽しんできた様子で、話していた。旦那に対しては、変なプライドもあり、本当の気持ちは隠していた。
これは、確実に私の心と身体を、救いようのない疲れの積み重ねへと運んで行った。
それでも3年も経てば、それなりに毎日を楽しみもしたし、気を遣わなくてすむ、現地の友人も出来た。でも、この疲れと悲しい気持ちだけは、ずっと張り付いて剥がれずにいたのだ。
日本の友人を恋しい、と思う自分を無視して、日本の家族に会いたい、とせがむ自分を閉じ込めて。“私は、スコットランドで生活を始めたのだから、スコットランドの人の様に、生活をするんだ。”2年目終わりの、日本への一時帰国で、正直な気持ちが、一気に流れ始めた。
日本から帰って来て、ひどいホームシックにかかってしまった。
症状は、
1. ベッドの中にいるのが好き。
2. 夢を見ることを、楽しみに思う(特に日本の夢)。
3. 泣く。
4. スコットランドが嫌いになる。
5. この人生が、ばか馬鹿しい、と感じる。
この頃は、旦那に迷惑を一杯かけたと思う。忙しい仕事から帰って来ると、先に帰ってきた妻が、夕方から眠っていたり、すぐ泣いたり、スコットランド人の悪口を言ったりするのだから。
結局、これが原因ではないが、私の希望と、彼の野心もあって、3年をスコットランドで過ごしただけで、日本へ引っ越すことを決めたのだ。
そんな風にして、今回、日本で2年間、自分の生まれ育った街で、両親と姉の近くで生活した後、やっぱりこちらの生活を強く希望する、旦那の為にも、2人で再びスコットランドへ戻って来た。日本で、2人でその決心をした後、かなり長い期間、私は苦しんだ。
スコットランドでの、生活、再び…。
一度、真剣に旦那に、私は日本で暮らして、遠距離結婚できるかな?と言ったこともある。
今回のスコットランド帰りに際し、私の中で、1つのモットーを作った。簡単なことである。
でも、自分を守るため、そして、旦那と、ノーマン3人の生活を守る為にも。
““ 自分に、嘘は付かず、正直に生活する ””
わがままだが、これはかなり大切なことだと、今、心底思う。国際結婚で、一方が相手の国で生活する場合、これはアドヴァンテージとさせてもらうこと。あなたの国で、私、頑張って暮らすから、好きなこと、させてね!と。これを決め込んだ私、態度はでかかった。好きなだけ、インターネット使わせてね!このインターネットを通じて、前回、かたくなに拒否してもたなかった、日本人との交流を持つことにしたのだ。これが、どんなに私を、救ったことであろうか。
愛すべく日本人の友よ…。
               つづく
# by yayoitt | 2004-11-21 01:01 | 英国暮らしって... | Comments(4)
いい男 ベスト10 ミュージシャン編
音楽、歌、歌手、バンド…。
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幾つになっても、いつの時代も、生活の中心にあり、欠かせない人生のご褒美である。いい歌、音楽は、時と共に一旦去りはするが、必ず脳裏に蘇ってくるものだ。特に、バンド音楽が私は好きだが、男の人のバンドや歌手は、その見た目も、非常に大切である。綺麗でなくても、かわいくなくても、かっこよくなくても構わない。それは、彼らの音楽、歌詞、そして態度も含めて、魅了される。だから、視覚と聴覚で、私が判断する、独自のいい男ベスト10なるものを決めたい。知っている歌手、歌のジャンルが偏っているので、きっとこのベスト10も偏っているとは思うが…。国籍、年齢、関係なく、やっこわがまま投票、ということで。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

第10位 玉置浩二 (安全地帯)
声が綺麗だし、音楽も素敵、雰囲気のある歌が多くて、青春時代の思い出のバンド。
化粧無しの、玉置さんの顔が妙に好き。

第9位 吉岡秀隆
実は、歌はほとんど聞いたことがないんだけれど、何と言っても、あの表情が大好き。

第8位 JARVIS(BRANSON)COCKER (PULP)
イギリスは、PULPパルプというバンドのヴォーカリスト。
独特の雰囲気と、いつもかけている大きな黒い縁取りの眼鏡がよく似合う。

第7位 DAMON ALBARN (BLUR)
イギリスは、BLUR ブラー というバンドのヴォーカリスト。
とにかくかわいい、幾つになっても少年みたい。

第6位 高野寛 

1988年にデビュー。代表作は、“虹の都へ”や“べステンダンク”歯並びがかわいらしく、
口元が愛らしい。歌も個性的でよく車の中で聞いた。

第5位 FRANCIS HEALY(TRAVIS)
スコットランドはグラスゴー出身のバンド、トラヴィスのヴォーカリスト。
とってもチャーミングで、ヴィデオもおもしろい。声も良い。

第4位 JUSTIN TIMBERLAKE ジャスティン ティンバーレイク
もと、ブリトニースペアーズの彼氏で、現在は キャメロンデイアスと婚約(?)。
始めてヴィデオで見た時からの、私はファンである。言うことなし。

第3位 FREDDIE MERCURY (QUEEN)
QUEENのヴォーカリスト。惜しくもHIV感染でこの世を去ってしまった。
いかにも、ゲイらしい雰囲気の晩年より、長髪だった頃の彼の、あの出っ歯がたまらなく好きだ。非の打ち所がないくらい、声もいい、歌もいい、見た目も素敵だ。

第2位 BILLY CORGAN (SMASHING PUMPKIN)
いわゆる スマパン の、ヴォーカリスト。
彼の声は信じられない様な音域で、パワーがあり、魅力的。
旦那によく似ていると、私は思っている、ふふふふふ。

第1位 BONO (U2)
南アイルランドのバンド、ユーツーのヴォーカリスト。現在44歳、まだまだ若い!
何もかもが大好き。特に口元が好き。どの歌も、名曲であり、長年に渡って、今もなお、こんなにも素晴らしい曲を作り、歌い続けるのは、素晴らしいと思う。来日した時に、ニュースステーションに、ビールを片手に出演したのを覚えている。
# by yayoitt | 2004-11-20 18:56 | やっこの思想 | Comments(2)
昨夜のサッカーの試合
昨夜は、フレンドリーのサッカー試合があった。
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スコットランド 対 スウェーデン は、ヒッブス(スコットランドは、エーデインバラのプレミアムチームの一つ)グランドで、8時半頃から始まった。また、イギリス 対 スペイン が、スペインはマドリッドのスタジアムで行われた。スコットランド戦は、1-4で、スコットランドの大敗であった。
スコットランド人は、これくらいのことは、もうかなり、慣れている。イギリス戦は、ちょっと違う。イギリスのチームには、有名なベッカムを含め、マイケルオーウェンなど、数々の世界的に活躍する選手が揃っている。そして、イギリスは、それを誇っている。彼らは、ウェールズやスコットランド、アイルランドの活躍を喜ばない。ウェールズ、スコットランド、アイルランド人は、イギリスのサッカーチームの活躍を憎んでいる。ここには、歴史上の出来事と、宗教上の絡みがあるのだ。昨夜の、イギリス、スペイン戦を、私と旦那はテレビで見ていた。
マドリッドのスタジアムは、5万人の観客が入れる、とても大きな、度肝を抜くようなスタジアムらしい。テレビで見る限り、観客席は一杯に見えた。サッカーのゲーム自体は、スペインのテクニックが、はるかにイギリスのテクニックを上回っていることが明らかで、イギリスチームは、ボールをキープしておくことが出来ずに、ボールは常に、スペインの選手から選手へとパスされるだけであった。それでも、イギリスは 1-0 をキープして、結果は、1-0であった。試合は、明らかに一方が強いのに、それほど点は入らないという、見ている方としては、おもしろくないものだった。ところが、試合はさておき、大きな問題が起こったのだ。
この問題は、早朝から、ラジオでも、新聞のスポーツ欄一面に書かれるくらい大きな問題となって、波紋を呼んでいるのだ。それは、観客の、態度である。
イギリスチームには、幾人かの黒人プレーヤーがいる。
昨夜は、Shaun Wright-Phillips と、Ashley Cole がプレーをしていた。
もちろん、彼らは英国人で、イギリスチームで活躍している。試合中、毎回この二人がボールに触る度、観客から、ウォフ ウォフ ウォフ を、サルの真似をする声が聞こえるのだ。
ただ、皮膚の色の違いだけである。 しかも、毎回、である。黒人の選手がボールに関わっている間中、サルを真似する観客の声が大きくテレビを通じて入って来る。私も旦那も、これにはビックリ、そして吐き気を覚える思いがした。今日、この話題は、スポーツ欄だけではなく、トニーブレアがコメントするほど、政治的な問題にまで至った。このスペインの観客の態度に対して、政治的に、倫理的に、何かアクションを起こさなければならない、と。チームの着ているストリップ(シャツ)の色ではなく、肌の色で、このようなリアクションをする。
人種差別 という、人間としての、原点の問題である。レポートでは、そこにいたスペインの観客はこう話す。“僕達は、人種差別してなんかいないし、(サルの真似をしていた観客)は、ある一部の人達だけで、僕の周りで、そんな声は全く聞こえなかった。これは本当だと思う。
テレビのセットの近くにいた人達が、この声を出していたのは、テレビを見ていても明らかで、
スタジアム全体から聞こえる、というよりも、テレビの近くで、大きくこの声が聞こえた、という感じであった。とは言え、実際にプレーしていた、黒人の選手達は、これを聞いており、プレー後のインタヴューで、“肌が黒いというだけで、こんな思いをして”と、その憤りは隠せない様子だった。FIFAでは、もしも、この試合中、黒人選手がプレーを拒否したらどうなるか、という想定で話し合いもしていた。彼ら、黒人選手達にとって、プレーをする気を失くし、そこを立ち去りたい気持ちだったのは言うまでもない。2001年9月11日のアメリカテロ攻撃の後、スコットランドのプレミアムチームの試合中のこと。アメリカ人のプレーヤーを持つチームの試合中。その反対側のチームのサポーターが、アメリカ人のプレーヤーがコーナーに来た時に、立ち上がって、飛行機の真似をして、それがテレビに映ったことがあり、やはりこれは、大きな波紋をスコットランドでよんだ。その観客は、その後、一切の彼のサポートするチームの試合への立ち入りを禁じられた。これも、人種差別である。アメリカ人、ということでの、個人的なリアクションなのだ。でも、もしも、彼の姿がたまたまテレビに映らなかったら?
昨日の試合で、もし、テレビを通して、サルの声を真似する音が入ってこなかったら?
人種差別は、人間に視覚がある以上、また、聴覚がある以上、必ずついて廻る、人間の悲しい習性なのだ。自分と違う、周りの人と違う、隣の人や自分の家族と違う。マジョリティーの中では安心できるが、マイノリティーの中にいると不安である。この、“違う”という意識。
悲しいかな、違いは、興味深くもあるが、忌み嫌いもしてしまうのだ。アメリカでの人種差別。
オーストラリアでの人種差別(外国人を追い出そう、という政府の動きは強い)。
タイでの人種差別(白人を“白い悪魔”という意味の言葉で呼ぶ)。
日本での人種差別(外国人お断り、の看板を掲げる店は意外に多い)。
どの国に行っても、そこに人間がいる限り、人種差別はあり続けるのだ。
昨夜の試合後、一夜明けて、私は数人のスコットランド人と、この試合に付いて語ってみた。
彼らは言う。
“もしも、イギリスがスペインに勝っていたら、こんな大きな問題にはしなかったはずだ。
彼らは、負けたから、その負けたという事実から、何か他のことに目を向けさせる為に、これほど大きな問題にしたんだ。”   ふぅうん。これが一理あるかどうかは、私にはわからない。でも、人間って、なんて難しくて、単純なのだろうか?私も、所詮、そんな人間の1人なのだ。
# by yayoitt | 2004-11-19 19:01 | 英国暮らしって... | Comments(0)
毛糸のパンツ
今日は風が強くて、とっても寒い。おなかも冷えるし、足も冷たくなる。
これはこれは、毛糸のパンツが必要と、私は日本で買ってきた毛糸のパンツを、ズボンの下にはいた。2枚買ったのだが、色違いで、ファンキーな星の柄のもので、形はショートパンツみたいなのだ。高校生が、ミニスカートの下にはいてた、あんなやつだ。これが実に、あったかい!足の先まで、暖かくなる!毛糸のパンツ、様様(さまさま)だ。
仕事中、靴を探してストックルームでしゃがんでいたら、後ろにいた同僚の女の子が聞いてきた。“やっこ、あんたズボンの下に、何はいてんの?”
シャツとズボンの間から、私のファンキー毛糸のパンツが見えたらしい。
しかも、赤、黄、赤のラインの部分が見えたものだから、彼女はかなり不思議に思ったようである。そこで、私は、シャツをめくり、ズボンを少し下げてみせた。彼女の目がまん丸になり、“マンマミーァ!!”と叫んだ。彼女はイタリアンスコットランド人で、自然に叫んだりする時はイタリア語になるのだ。マンマミーァは、オーマイゴッド(OH MY GOD)のイタリア版。
日本語で言う、“あんれ、まぁ”だろう。真っ赤な顔で大笑いする彼女、もうちょっとちゃんと見せて欲しい、と言ったので、ズボンのチャックを外して、全体の絵がわかるように、しっかり見せた。真っ赤な顔で、涙を流して笑う彼女の声を聞き、マネージャーの女性がやってきた。
私は彼女にも、最初は少し、そして、いかに温かいか説明しながら、またもやチャックを外して全体の絵を見せた。マネージャーも、涙を流して真っ赤な顔をしている。
“ばあさんが、履いてるような毛糸のパンツかと思ったら、星がチカチカ!はっはっは”
私は、涙を流し笑い続ける二人を前に、踊ったりしていた。そう、調子に乗りやすいのだ。
もとこの店で働いていたという女性が、たまたま店の前を通りかかったが、彼女もこの笑い声を聞いて、中まで入ってきて、私たちのところに来た。私は、この女性に会うのは初めてだったが、簡単に、はじめまして、と握手し、挨拶をして、マネージャーに言われて、その女性にも、また、ズボンのチャックを下ろして、毛糸のパンツを見せた。初対面の相手に、会って数秒後に自分のパンツを見せてるって、私…、とも思ったが、調子に乗り続けているので、気にならない。3人が、私の前で、腹を抱えて身をよじり笑っている。同僚が、涙を拭きながら、外に出て行った。私は、マネージャーと、初対面の彼女に、色々、毛糸のパンツに付いて語った。とってもおしゃれで、高校生の女の子が、ミニスカートの下にはいて、かわいいんだ、とか、決して、おばあちゃんが履くのとは一緒ではないんだとか、必死に説明した。
クレージー、クレージーと言われながら。チーン、と店のドアが開き、さっき外へ出て行った同僚と、その後ろに、隣の店(同じ会社だが、別の建物で隣同士)の21歳の男の子が入ってきた。そして、その彼が言った。“やっこ、毛糸のパンツ、見せて”私は、今度は真っ赤になりながら、“男には見せない、女だけの秘密だ、女同士の甘いシークレット”などと、意味不明なことを叫んだ。それを聞いて、レズビアンの友人を沢山持つ同僚がまた、“マンマミーァ!”と叫ぶ。彼は、“じゃぁ、僕のパンツ、見せてあげるから”と、シャツを上げ、ズボンの上から、パンツを引き上げて、バックスバーニーのパンツを見せてくれた。靴屋の店のど真ん中で、若い男の子がパンツを見せ、それに目を丸くして食い入るように見つめる、4人の女性達…。外からお客さんが見たら、なんだと思うだろう?結局、彼は、わざわざ隣の店に、自分のパンツを見せに来ただけで、帰って行った。私は、皆に、毛糸のパンツの絵柄は見せていたが、それが、足首までもあるモモヒキみたいなのだと思われたら嫌なので、彼女達を奥の部屋に呼び、今度は、言われもしないのに、ズボンをバッと下ろして、その全貌を見せた。
笑い疲れていた彼女達が、ヒーヒー言いながら、また笑う。前からと、お尻からと、更に調子に乗り、見せまくる私…。お客さんが入ってきて、とっさにズボンを、急いで上げる私…。
毛糸のパンツは、良い、パンツ。
# by yayoitt | 2004-11-18 19:05 | 英国暮らしって... | Comments(0)
お城が消える夜
家の台所の窓からは、お城を望むことが出来る。旦那は、食事をする時に、窓み向かう形でテーブルにつく。私は、彼の向かいに座るので、窓に背を向ける形で座る。彼は、窓から見える、このお城の景色がとても好きだ。食事中に、“うぅぅぅぅん。城が綺麗だぁ。”と目を細めて、スパゲティーをくわえながら言う。その度に、私は、“えぇえ?”と、スパゲティーを口に垂らしながら、背中を反らせて城を見る。
数年前に比べ、この窓とお城との間に、幾つか新しいフラットが建ったものの、幸運なことに、城はそれに邪魔されず、全貌を見ることが出来る。暗いと、明かりが灯り、ぼんやり浮いた感じで、とっても綺麗だ。昼間は、古い石で出来たこのお城と城壁は、黒っぽくて遠くからだとパッとしないのだが、夜は、はっきりと、その存在感が浮き上がっているのだ。
日中、私はよく城を見る。台所に立ち、シンクに向かい、皿を洗いながら、野菜を洗いながら、城を見る。家の下には大きな共同の庭があり、その向かいには、一個立ちの家が3件並んでいる。ボケーっと、城を眺めていると、向かいの家に住む、おじいさんとおばあさんが、やはり窓辺に二人で立って、指をさして、私を見ていることがある。それに気が付くと、私はすぐさま、背伸びをしたり、グラスに水を汲み、ごくごく飲んだりするのだ。彼らが、私がジッと彼らのことを見ていると思われては嫌なので、急遽(きゅうきょ)そんな行動をとってしまうのだ。
わざわざ、大声張り上げて、“ハロー!こっからのお城の眺めは最高でぇ。”なんて言うのは恥ずかしい。もしかしたら、おじいさんとおばあさんも、うちのアパートの反対向かい側に建っている、大きな煙突を指差して見ているだけかもしれないし。
イギリスのバッキングガム宮殿から、何か行事や、祝い事、避暑などで、クイーンや皇族が城に来ていると、この城に、大きなユニオンジャックの旗があがる。
ユニオンジャックの旗は、イギリス、スコットランド、北アイルランドの旗が融合したものだが、
私はやっぱり、スコットランドの旗、青地に白の斜めのクロスが入ったもの(St,Andrews)か、黄色地に赤のふちどり、中央に赤のライオンがあるもの(Rampant Lion)が、好きだ。
今夜、旦那が食事をしながら、悲しそうにつぶやいた。“城が、消えた。”
焼いたナスの入ったパスタを口から垂らしながら、私はグリュッと身体をよじて、窓の外を見た。城がない、消えた。深いもやで、城は消えてしまったのだ。
今日一日、霧雨のような雨が降り続け、夕方までには、街をすっぽりと深い霧が覆ってしまったのだ。城どころか、向かいの家のおじいさんとおばあさんも見えない、明かりがポッと浮かぶだけだ。この風景を見て、私は、昔のことを思い出した。

田舎の病院の看護学校にいた時のこと。
その看護学校は、全寮制だったので、週末だけ私は家に帰った。遠くから来ている生徒達は、週末もずっと寮で過ごしていた。高校卒業してからの3年間、多感な時期をここで友人や先輩、後輩達と共に過ごした。楽しいことも一杯あったけど、嫌なことも沢山あった。田舎の街には、大きなビルや、壮大な夜景はなかった。それでも、私は友人と、夜になると屋上に上がっては、星を見たり、散らばる電灯の明かりを見ては、色々な話をして過ごした。好きな人の話、将来の話、音楽の話…。その屋上は、病院の真向かいに建っていた寮の5階にあったので、早い時間帯には、患者さんから見られることもあった。だから、屋上の暗い場所を選び、ラジカセを持ってきて、レベッカを聞きながら踊ったり歌ったりもした。そんな田舎街の5階から見える夜景の中で、私がとても気に入っていた光景があった。それは、山手に建っている大きなボーリング場の夜景だった。その建物の周りは山だけで、他に明かりがなく、建物を照明が下から照らしていたので、それはまるで、真っ暗な空に浮かぶ、飛行船のようだったのだ。キャプテンハーロックが乗っていた様な、あんな宇宙船のようでもあった。1人でも、毎晩、必ずその宇宙船を見に行った。試験勉強の合間に、1人、嫌になって部屋を抜け出し、宇宙船を眺めて溜め息をつく。その頃から、海外への夢や思いが強かったので、レベッカの“ロンドンボーイ”を口ずさみながら、ジッと眺めた。数年後いつの間にか、その飛行船は、周りの新しい建物の明かりに邪魔されて、消えてしまっていた。
感受性の強い青春時代を、どれだけ、この光景に思いを寄せては過ごしたことだろう…。
今、その頃に憧れていた外国の地で私は、文句を言ったり、愚痴を言ったりしている。
古い建物の美しさを見たり、夜景を見ながら過ごす時間より、道に落ちているゴミのことを不満に思ったりして暮らしている。
旦那が好きだと言った、そのお城が、消えた。
そんなことから、色々なことを思い出し、また、考え直させられる、霧の夜。
# by yayoitt | 2004-11-17 19:07 | 思い出 | Comments(0)
幼少の頃の思い出 クリスマス 2
父と母は、共働きだった。その頃、お母さんが働いているという家庭は、比較的少なかった。
私は、保育園や学校から帰って来た時の、誰もいない暗い家の中が大嫌いだった。
年を取ったおじいさんがいたが、いつも自分の部屋でテレビを見ていて、私が1人で家にいる時に、顔を合わすことは、余りなかった。母は、親戚の呉服屋で着物を売ったり、お客さんにお茶を出したり、反物をたたんだりしていた。そこには、私より小さな女の子の従妹が2人と、男の子が1人いて、母は、その子供達の“もり”もしていた。暗い家に帰って、1人でテレビを見ながら、よく私は、こらえきれない嫉妬心で一杯になったものである。私のお母さんは、私よりも、いとこ達のことが好きなんだ。子供の頭で、それが仕事という考えが出来ずに、ただただ、悔しい思いをしていた。保育園から帰って、毎日、覚えた番号を廻して、有線(電話で、その町内だけ掛けられる)で、母に電話しては、毎日毎日、同じことを母に言っては、困らせた。“いつ帰ってくるの?”“今、何しとるの?”“なんで、そこに行かんならんの?”
母は、それでも怒らず、私の同じ質問に答えては、最後は笑いながら、“よし、もう切るでな、いいかぁ?”と言って、私がぐずぐず言っても、“じゃぁなぁ”と電話を切った。こんな甘えん坊の私の電話は、それでも毎日、必ず呉服屋の店で、チーン、チーンと鳴るのだった。
父はとても働き者で、プロパンガスの小さな会社で働いていた。
重いガスのボンベを配達する父の細い腕には、カチカチのちからコブが、どっしり乗っていた。よく、父が腕を曲げて見せるちからコブを、私はゲンコツで叩いては、思う以上にそれは硬くて、“いってぇー”と言っては、顔をしかめたものだ。父は、とてもよく動き、また、走れば速く、飛べば高く飛べる人だった。そんな父は、クリスマスの数日前には必ず、クリスマスケーキの箱を2つ抱えて、仕事から帰って来る。
会社で、ボーナスとして、クリスマスケーキを2つ、もらっていたのだ。
一つは、我が家様であるが、もう一つは、親戚のおじさんの家にあげていたのだ。
二つのケーキは、クリスマスまで2日間ほど、寒い玄関の、新聞が重ねておいてあるその上に、大事に乗せられていた。子供の私達は、二つのケーキが、どこから来たものなのかは知らなかったが、両方とも、自分達が食べれるものと信じていた。その頃のケーキは、まだ、生クリームが出回っていなかったので、バターケーキという、甘い、でも、硬いクリームのケーキだった。上には、赤いボタンのような玉と、サンタの形のロウソク、そして必ず、チョコレートで出来た雪をかぶった家が置かれていた。12月20日を過ぎると、玄関に、その二つのケーキの箱が現れる。姉達と、父や母に見つからないように、中を見る。
“わぁぁぁぁ”
二つ目の箱も、中を開けて見てみる。
“わぁぁぁぁ”
全く同じだが、ロウソク臭いサンタがやっぱり、乗っていると、瞳を大きく見開き、3人で興奮する。姉が、そっと、指でクリームに触る。硬いけど、強く指でこすれば、コソッと、はがれてくる。花の模様のクリームの部分を、3人それぞれ、はがして舐(な)める。
あっまぁぁぁい!
私達は、一つの箱のケーキだけ、ひどくくずれていたら、両親にすぐわかってしまうと言って、二つ目の箱も開け、同じ様に、指でくずして舐めた。姉は私を抱きながら、ころころ転がるほど喜び、甘い、甘い、と笑って舐め続けた。
数日後に、その箱が玄関から消え、姉達が一つ目の箱のケーキを、父と母の目の前でドキドキしながら開ける頃、山奥に住む父の兄の家で、私達の舐め続けて形が崩れたもう一つのケーキの箱を開け、田舎の村のおじちゃんと、おばちゃんは、どんな風にそのケーキを眺めたのだろうか。それでも、従姉の一人娘のすみちゃんは、手を叩いて歓喜してたに違いない。
そして、私達がくずしたクリームの硬い壁を、同じ様に指で、グリッと撫でては“甘い、甘い”と笑ったのだろうか。
# by yayoitt | 2004-11-16 19:15 | 思い出 | Comments(0)
幼少の頃の思い出 クリスマス
泣き虫も、グズグズも、なおらないけど、それなりに年を重ねていった子供時代。
小学校は高学年になった頃から、私は、気弱な自分を守る一つの方法を取得していた。
それは、ピエロ、になって、馬鹿なことをしたり、人を笑わせることで、友人を作ることだった。
内弁慶(うちべんけい)の私は、家では、両親や姉達を笑わせていた。おもしろい顔をしたり、こうすると、お父さんは笑う、とか、これをすると、姉ちゃんは笑う、ということを敏感に覚えていった。家での経験を重ねる一方、沢山、漫画本も読んだのだ。
特に、梅図かずお の “まことちゃん”は、沢山読んだ。
向かいの家に、姉達と同じくらいの年のお姉ちゃんが二人いて、彼女達が、まことちゃんの本を沢山持っていた。その家は、おもちゃ屋で、そのお姉ちゃん二人に、年の離れた弟がいたが、その弟は私と同級生であった。おもちゃ屋の子供、なんて、小学生の頃の子供にとっては、夢のようであり、クリスマスイブには、その子の枕元には、山ほどおもちゃが並ぶのだろうと想像した。9歳頃までは、サンタクロースという存在を信じていた私であったが、あるクリスマスイブの夜、夕食後、イブという雰囲気と、9時になったら皆でケーキが食べられる、という現実に浮かれて、テレビのある部屋で、1人で踊っていた時のことだった。玄関で、誰かの小さな声がした。誰だろう?と思って、玄関に出ようとする私を、姉が突如押さえつけ、裏から母が走って飛んできた。明らかに、私1人に隠し事をしているという雰囲気だったので、私も必死に、玄関に誰がいるのだろう、と姉の腕の中、もがいた。玄関と茶の間をさえぎるガラス戸が、少し開いていた。私は、姉の手を握ったまま、呆然とその隙間に見える光景を見ていた。
向かいのおもちゃ屋のおばちゃんが、真っ赤なつるつるした包装紙にくるまれた箱を母に手渡し、ぼそぼそ何かを言い、今度は、母がおばちゃんに、何か小さな、手に隠れてしまうほどの物を渡したのだ。それは、お金だった。そのまま、おばちゃんが帰っても、母は玄関からしばらくの間、中に入ってこなかった。私は翌朝、枕元に置かれた、昨夜見たのと同じ、赤い包みの箱を見て、特に何も悲しいとか、がっかりしたとかは、感じなかった。その箱の中に入っていた、私が母に欲しいと言っていた、おもちゃのキッチンシンクは、3日ほどで、水も出なくなり、壊れてしまった。そのおもちゃ屋の男の子の枕元には、クリスマスは、ますます沢山のおもちゃが並ぶんだ、と思い始めた。いつも、その同級生を羨ましく思っていたものだ。
彼は今、家を継ぎはしたものの、おもちゃ屋は継いでいない。
彼は今になって、こんなことを言った。
“俺な、いっつも、やっこちゃんの家がうらやましかったんや。うちは、自営業やったやろう?
だから、家族で、どこにも遊びに行ったりってことがなくって、やっこちゃんの家族が皆で出掛けるのを、指くわえて、見とったんや。”
自営業のおもちゃ屋の彼の家は、お父さんが他の事業も始めて成功し、とても裕福だった。
目に見えて、家は大きく立派になり、子供が持っている物も、私達姉妹のそれとは違い、高価な物だった。おしゃれなチワワ犬を飼っていた。
私の両親は、とにかく出掛けるのが大好きで、古い車で、家族全員でどこへでも行った。
裕福ではなかったが、時間があれば父と母は、子供達を連れ出しては、紅葉を見に行ったり、滝を見に行ったり、どこかで大きなツツジが咲けば、皆で出掛けた。母がおにぎりを作り、みかんを持ち、お茶を水筒に入れ、チョコレートを買って、出掛けた。向かいの家から、そんな私たち家族の笑顔を、ジッと見ている彼を、25年近く経った今まで、知らずにいた。
彼は今、会社に通い、子供を育て、年老いていく親の面倒を診ている。
# by yayoitt | 2004-11-15 19:17 | 思い出 | Comments(0)
やっこ、歯医者に行く 2
旦那が、笑顔で、待合室に帰ってきた。笑っている。終わったから、いいさ、笑えるさ、ふんっ。私の地獄は、今からさ、ふんっ。旦那が優しく言った。“僕と、一緒に、行こうか?”
“うん、お父さん、一緒に来てぇ”手を引かれて(実際に手は引かれていないが、そんな気分で)、彼の後を歩き、治療室に入る。明るい、大きな窓から、一杯に日差しが差し込んでいる。若い、看護婦さんが、何も喋らず、ニコニコして椅子に座っている。さっきの、金髪の歯医者の若い女の人が、綺麗な笑顔で私に話しかける。
“逃げなかったね?オッケー、じゃぁ、今日は、とりあえず、まず全体の歯を見てみようね”
うっ、優しい♪“ご主人から、あなたは、幾つか歯に問題があるって聞いたけど…。まぁ、この椅子に掛けて”水色のナイロンの長椅子(治療用の椅子)に掛けた。
旦那は向かいの椅子に座り、なにやら、冗談を言っている。
私は、口の中を見せる前に、日本での今までの治療の話や、今回、前歯がどうやって欠けたか、という話をした。金髪の歯医者は、真剣に私の話を、時々眉間に皺(しわ)を寄せて、うなづきながら聞いている。 うっ、優しい、理解がある!
ジョーズのテーマ曲から、その時には、頭の中は“ビヴァルディーの四季、春”が流れている。私の話を聞いて、彼女は、今まで見てきた、日本人の患者さんの歯の治療のことを色々、私と旦那に説明する。日本の最近の歯科治療がいかに進んでいるか、でも、治療しすぎなところがある、というような話だった。彼女が、腫れ物に触るように、そぉっと私に言う。
“オッケー、じゃぁ、今からまず、口の中を見るからね、リラックスして、見るだけだからね”
頭の中で、ジョーズが戻ってくるが、自分で、四季の春に代えられるくらい、落ち着いていた。
私は、いつも、新しい歯医者で必ず最初に言うように、“とにかく、ひどい歯をしているから、叫ばないでね”と言った。彼女は、少し笑いながら、“大丈夫、大丈夫”、旦那は椅子に座ったまま、クスクスと笑った。しばらく、真剣に、念入りに、口の中を見回した後、金髪の彼女は言った。“彼女が言うほど、そんなに、実際はひどくはないわ。でも、歯茎の問題に関しては(歯茎に幾つか膿胞を作っているのだ)、写真をとってみなきゃ、はっきりしたことは言えないんだけど。”その後、彼女が色々、歯の治療後の話をし始めた。
“…で、根っこの治療をした後は、6に1の割合で、それは死んでしまうですね…”
旦那が、すかさず、“患者が?”と聞いた。今まで黙って椅子に座っていた、若い看護婦さんが、ブッ!と噴き出した。歯医者の彼女も笑いながら、“ははは、患者じゃなく、歯がね”
私も、笑った。“今日は、これだけよ。”
ビヴァルディーの四季、春は、最高潮の部分を奏でている♪
一般に歯科医には、そのレントゲン(特殊なもので、パノラマ状に映すもの)がない。
だから、この歯科医から、エーデインバラのデンタルホスピタル(歯科病院)に依頼をし、デンタルホスピタルが、いつ、写真を撮りにきたらよいか、電話で私に連絡してくれる。そして、その写真を持って、次回の予約に、本格的な治療をする、ということなのだ。
私は、もうニコニコだ。痛いことは何もなく、今日の、初の予約の時間はすんだのだ。
まだ、治療のちの字も、していないのだが、これで、歯医者の雰囲気も、歯医者がどんな人かもわかった。それに、その歯医者が、私の歯を見て叫ばなかったし、おまけに最後に、部屋を出る時に彼女はこう言ってくれた。“とっても、歯を大切にしてるわよ”
本当は、叫ばれるような歯なのに…。お金を払って、金髪の彼女にお礼を3回も言い、私は手まで振って、旦那と二人で外に出た。
朝の強い風、家を出る時は、嵐の前触れのように思えたその風も、歯医者の戸を開けて外に出た時には、まるで暖かなそよ風のように感じた。次の予約は12月第2週、金髪の彼女は40分という、長めの時間を私にとってくれた。本当の治療の始まりは、その日なのだが、もうどうでもいい。その時に、また、おなかをこわしたり、脈拍140くらいになったりするだろうが、その時に悩めばいい。大事なことは、
1. 今日の歯医者が終わったこと。
2. 歯医者が、明るい雰囲気だったこと。
3. ドリフのコメディーのような歯医者じゃなかったこと。
4. 先生が、とっても優しい人だとわかったこと。       である。

ターラッタッターラリラァ、タラッタッタッターラリラァ。(四季 春)
# by yayoitt | 2004-11-14 19:21 | 英国暮らしって... | Comments(0)
やっこ、歯医者に行く 1
歯医者に行く、このタイトルに、私がBGMをつけるとしたら、絶対に“ジョーズのテーマ”だ。
♪チャ――ラ、チャ――ラ、チャーラ、チャーラ、チャーラ、チャーラ、チャラチャラチャラチャラ♪
私は、歯がとっても悪い。
歯が悪いから、歯医者が怖いのか?歯医者が怖いから、歯が悪いのか?
相互関係というところだろう。でも、決して、歯医者が悪いから、歯が怖い、訳ではない。
こんな私が、歯医者を予約した。歯医者の一番の恐怖は、初めて行く歯医者のその初日である。まず、医者が、どんな人かわからない。雰囲気が、どんな風だかわからない。看護婦さんが、優しいかどうか、わからない。とにかく、色々な想像をする。
昔、ドリフターズのコメディー(一年に2回ほどやっていた特集)で、“もしも、OOOな 飲み屋がいたら”というようなのがあった。
ちょうど、こんな感じで、新しい歯医者に初めて行く時には、色々な歯医者を想像するのだ。
***“もしも、怒りやすい歯医者がいたら…”***
これは一番、嫌だ。私は、歯医者が、“こんなになるまで放っておいて”とか、“歯が悪いのは、全部、あんた自身の精!”などと、怒られるのではないかと、いつも、ビクビクしている。
自業自得だ、と、ドリルでガリガリ削られたら、どうしよう!ひゃぁぁ!
***“もしも、決断力の弱い歯医者がいたら…”***
これも、嫌だ。“ちょっと、ここ、削りたいんだけど、でも、どうしよう、なんか、いいかな?本当に、削っても…”“でも、痛いだろうな、きっと、でも、削らなきゃいけないし、どうしようかな?”
私が有無言わない様に、サッと決断してくれないと困る。
***“もしも、気の弱い歯医者がいたら…”***
私は、歯に自身がないので、いつも、新しい歯医者には前もって、かなり歯が悪いので、びっくりしないで、と言う。でも、気が弱い歯医者で、“あへあへあへあへぇ”と、私の口の中を見るなり、卒倒されたら、傷つく。
昨夜は、まるで、くくられる首を綺麗に洗うように、念入りにシャワーと歯磨きをした。
何もかも、パーフェクトな状態でないと、歯医者で、上手く行かない、そんな気がするからだ。
夢の中で、二度、歯医者に行き、一回は、麻酔の注射を打ってもらったけど効かなかった。
何本も打ってもらうけど、効かない、そんな夢だった。私は、注射の痛みは全く平気で、一番怖いのは、歯を削られることなのだ。注射は、痛いけど、痛い理由がわかる、明らかだ。
針が歯肉に刺さるから、また、液が硬い歯肉に入っていくから、痛いに決まっている。
それに、“はい、今、痛いよ!”と、痛い瞬間がわかる。それに比べて、歯を削るのは、いつ、痛いかがわからない。痛くないかもしれないけど、痛いかもしれない。ドリルが、徐々に中央の神経に近付いていって … ぎゃっ!“痛かったら、手を上げて下さい”??冗談じゃない、絶対に、痛くないように、約束して下さい、お願いします(涙)、なのだ。いつ来るかわからぬ痛み、あれほど、怖いものはない。頭の中で色々、歯の内側を想像する、そこにドリルがクルクル廻りながら食い込んでいく…。だから、ちょっと削るのも、必ず麻酔の注射を打って欲しい、と頼むことにしている。今朝、再びシャワーを浴び、熱いミルク一杯のコーヒーだけ飲んだ。とても、食事なんか、のどを通らないからだ。気を落ち着かせようと、コーヒーを飲んでいる間、脈拍を測ってみた。1分間に、126回もある。普段は、70台くらいだ。
また、トイレに何度も行った。トイレに行っても、またすぐ、おなかがゴロゴロいって、すぐトイレに戻る。私は、全くの、正真正銘、弱虫なのだ。旦那と二人、同じ時間に予約してあったので、強い風の朝、家を出た。家を出る時、ノーマンの顔を見る。次にこの顔を見る時、私はきっと、歯医者が終わって、ニコニコしているだろうな…。歯医者は、歩いて3分くらいのところにある、とても新しい歯医者だ。待合室は明るく、中からは、ラジオの歌と共に、男の先生の笑い声が聞こえる。待合室には、子供向けの本がいろいろあったが、カラフルなそのかわいらしい本や、ぬいぐるみの犬を見ても、もう、私の心を楽にするものは、この時点では何一つない。逃げれば楽だが、また、同じ苦しい朝をいつか迎えなくてはいけない。男の先生が出て来た。眼鏡を掛けて、ジーンズをはいて、とても若くて優しそうだ。少しだけ、気持ちが軽くなった。今度は、金髪の若い女の先生が出て来た。綺麗で、エーデインバラアクセント、かわいらしい人だ、笑っている。そして、“ミセス&ミスター ***?”と私達の名前を呼んだ。
二人一緒に入りたいか、それとも、別々でよいか、と聞かれたが、私はきっと莫大な時間がかかるに違いないと、信じていたので、旦那が先に行ってもらうことにした。旦那が先生と中に入っていく時に、私は“その間に、逃げてしまっているかもしれない”と、冗談半分、半分真剣に、言った。二人は、さわやかな笑顔で、“逃げないようにねぇ”と言った。彼女が私の歯医者とわかっただけで、気分はかなり楽になった。奥の部屋から、旦那と、彼女の楽しく笑って話す声が、そして、彼女が、日本にいたことを聞いて、興味深げに色々質問する会話が聞こえてきた。楽しそうだ、それに、彼女は、とっても優しい感じだ。また、胸のかげりが、だいぶ晴れていくのがわかる。歯医者に対する不安とは、とっても精神的な苦しみである。
実際に、現代では、痛みの経験はかなり少なくなって来ているものの、私の幼少時代の歯医者は、決まって痛かった。しかも、私の故郷の小さな町には、3軒しか歯医者がなかった。
一つは、目のほとんど見えない年寄りの歯医者(うわさでは)、
一つは、熱心な余り、虫歯があると必ず、患者を叱る歯医者、
そして、私の行っていた歯医者(うわさ、評判がとても良かった)だった。
この歯医者の雰囲気というのが、昔の古い木で出来た冷たい感じの暗いもので、待合室にもサメの歯型が飾ってあるだけで、畳の上に、本も色々置いてあったが、医療関係(歯科ダイジェスト、みたいなイメージ)の雑誌が殆どだった。歯を削るのに、もちろん、麻酔など使わないので、歯医者に行く=何か痛いことがあったのだ。歯医者の椅子は、まるで電気椅子のようだったし、何一つ、心を落ち着かせてくれるような物は、その空間にはなかった。小心者でちびり屋で、怖がりの私は、いつも必ず泣いて、更に抵抗した。母と、看護婦さんとで、両手を椅子の後ろで抑えられ、両足も抑えられての治療だった。大きくなるにつれ、泣いたりわめいたり、歯医者の股間を蹴ったりは、さすがにしなくなったものの、その思い出は、いつまでもトラウマになって、記憶は鮮明に蘇るのだ。実際に、どれだけ痛かったかは、もう忘れてしまっているのに、どれだけ、怖かったか、という精神的な恐怖心は忘れないものだ。
# by yayoitt | 2004-11-13 19:25 | 英国暮らしって... | Comments(0)
POPPY APPEAL DAY 11月11日11時
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11月11日は、ポピーアピールの日である。
ポピーは、花のポピー。アピールは、訴える、願う、の意。
10月中旬から、このアピールは始まっている。
街を歩く人々の胸には、その真っ赤なポピーの花が付けられている。
お年寄り、若い女の子、高校生、実に大勢の老若男女が、ポピーを付けている。
この、ポピーの日の始まりはこうである。
1921年に、初めての公式軍のポピーデーが、英国でもたれた。
これは、JOHN MCCRAE(ジョン マックレイ)という人の書いた、IN FRANDERS’FIELDS(フランダースの戦場)という詩にちなんだものだ。それから毎年、11月11日のポピーアピールは、英国国民の記念の日となった。第一世界大戦の、最も残虐な戦場の一つに、フランダース(北仏、ベルギー西部、オランダ南西部)がある。ポピーの花は、唯一、その、完全に荒廃した戦いの跡地に、咲いた花であった。JOHN MCCRAE は、カナダの軍隊と共にそこにいた医師で、深くその光景に心を動かされ、1915年に、その詩を書いた。
1918年11月11日午前11時、第一次世界大戦は終結した。
人々は、平和と自由の為に命を亡くした人たちのことを、いつまでも忘れないように、と願った。その頃、アメリカの国防長官 MOINA MICHAEL(モイナ マイケル)が、JOHN MCCRAE の詩に感激し、ポピーの花を友人に売り、その売り上げを、元兵隊団体へと寄付をした。そこから、この習慣が始まったのだ。
1922年、少佐 GEORGEI HOWSON という若い歩兵が、身体障害者の社会(組合)を設立、第一次世界大戦で障害者となった、元兵士の男女を助ける働きを始めた。彼は軍に、障害者の組合のメンバーが、ポピーを作ることが出来ることを提案、ポピー工場が、ロンドンのリッチモンドに建てられた。オリジナルのポピーは、障害者であっても作れるように出来ており、その形と作り方はは、今も尚、昔のそれと同じである。
この時期、私は、少し複雑な思いをする。私は、母方の祖父を、戦争で亡くしている。
一枚の写真でしか知らない祖父。母は今もよく、彼のことを語る、彼と最後に交わした言葉、彼との最後の映像。幼かった母の脳裏に、そして心に、深く刻まれているのだ。
11月11日、私は、知らない祖父を、思う。また、日本人として、罪悪感と責任感を感じる。
日本といえば、第二次世界大戦では、ドイツと同じ、悪名高き残酷な兵士の行為で有名だ。
私はそのことを、日本を出るまで、正直言って知らなかった。広島、長崎、東京の大空襲と、被害者としての日本しか知らなかったのだ。でも、日本を出て、日本兵が何をしたかをテレビで(日本では絶対に映さないだろうと思われる映像や元兵士の話)見たり、直接、オーストラリアにいる時に、ホストファミリーの友人から、“あなたに直接恨みはないけど、日本が戦争で私達の祖父達にしたことを、決して許さない”と言われたり、韓国の男の子から、彼の祖父や父親がどう日本人に扱われたか、という話を聞いて、初めて、加害者日本を知ったのだ。
とっても、ショックだった。その事実に対するショックと、それを今まで知らなかったことに対するショックだった。   11月11日11時。
仕事中であったが、同僚とのおしゃべりをやめ、ラジオをつけた。教会の鐘が鳴って、2分間の黙祷をした。被害者、そして加害者である、日本人として。兵隊で餓死した祖父を思って。
やめられない人間の悲しき癖、戦争の、本当の意味での終結を祈って。      

          In Flanders' Fields
           John McCrae, 1915

      In Flanders' fields the poppies blow
       Between the crosses, row on row,
      That mark our place: and in the sky
      The larks, still bravely singing, fly
       Scarce heard amid the guns below.

       We are the dead. Short days ago
      We lived, felt dawn, saw sunset glow,
      Loved and were loved, and now we lie
          In Flanders' fields.

       Take up our quarrel with the foe;
       To you from failing hands we throw
       The torch; be yours to hold it high,
        If ye break faith with us who die
      We shall not sleep, though poppies grow
          In Flanders' Fields
# by yayoitt | 2004-11-12 19:30 | 英国暮らしって... | Comments(0)
うちの旦那と日本語
合計3年半、日本に滞在した、私の旦那、マイケル。彼の日本語、リスニングはかなり上級だと私は思う。名詞をびっくりするくらい沢山覚えているので、時々、ひやっとさせられる。
大学卒業後、ずっと外国人に英語を教える仕事をしてきている彼は、今もエーディンバラの英語学校で教えている。この夏、彼が受け持ったクラスの日本人生徒の女の子達が、彼に質問した時のこと。“COMPLICATED と DIFFICULT の違いは何か?”
彼女達は、彼が日本にいたことは全く知らなかったらしいが、
彼は、“DIFFICULT はぁ、難しい、ね。でぇ、COMPLICATED はぁ、複雑、ね。”と答えたらしい。女の子達はとってもびっくりしたらしい。私も、驚いた。難しいは、知っているにしろ、複雑、という名詞を知っていたのには驚いた。なんで、そんな言葉を知っているのか?と尋ねると彼は、“ オバタリアン から教えてもらった。”と答える。私の故郷で個人の英語教室を開いていた時、2クラスほど、高年齢のおば様方のクラスがあったのだ。だから、いつもそのクラスのことを、オバタリアンのクラスと彼は呼んでいた。オバタリアンクラスの一つは、私の母が生徒の1人だった。ちなみに彼は、私の母のことを、名前で、ちゃん付けで呼ぶ。
また、(唐突だが)彼は大きな鼻を持っている。
鼻なし、と私を呼ぶくらい、彼の鼻は存在感があるのだが、いわゆる、鷲鼻(わしばな)なのだ。私が姉と電話で、冗談で“どうせ、マイケルはあの鼻だから…”なんて話していると、隣の部屋から、“僕のNOSE(鼻)が、何?”と聞いてくる。これならわかるまいと、飛騨弁たっぷりで話しても、何の話題を話しているか、ということは理解する。そうそう鼻の話は、彼の前では出来やしない、ふんっ。私の父は、かなり方言が強いのだが、彼が車の中で、誰かの交通事故の話や、プロパンガスの売り上げの話なんかしても、マイケルは、大体の意味を理解する。彼のリスニングの良さは、才能だと思っている。その反対で、私はリスニングがかなり弱い。日本語でも、聞き間違いや、人の話を聞いていない、と指摘を受けるだけに、彼のリスニングの良さには頭が下がる。マイケルの希望もあり、彼の日本語力が極端に低下してしまわないように、時々日本語で話す時間を設けている。日曜日の午後、スーパーマーケットまで大きな買い物をするのに、二人ででっかいリュックを背負って、片道15分ほど歩く間、日本語オンリーの時間としている。彼のスピーキングは、私の話し方に似ている。私の日本語を側でずっと聞いてきたので仕方がないが、いわゆる、ちょっと女言葉だったりするからおもしろい。日本で、山登りをした時のこと。
すれ違う人々に挨拶をするのだが、彼もせっせと、“おはようございます”“こんにちわ”と言っていた。でも、彼の挨拶は、語尾が伸びるのだ。
“こんにちわぁー♪”“ご苦労様ぁー♪”“おはようございまぁす♪”
しかも、日本語を話す時の彼の声は、妙に高い。そう、私の日本語を真似しているから、声は高く、語尾も伸びているのだ。これが、やけに、かわいい。でっかいずうたいで、でっかい鼻で、女の子のような声で話す彼の日本語。ここに、彼得意の飛騨弁が加わると、絶妙である。“あのなぁ、マイケルはぁ、昨日ぅー、パブにぃ、お酒をぉ、飲みにぃ、行くさ。”
現在、過去、混じってても、かわいい。訂正するのがかわいそうなくらいだ。彼は、ここで3年前に、週一で日本語のクラスで勉強していたことがある。その頃の、彼の日本語の宿題というのが、かなり難しかった。何とか、ひらがな、カタカナを書けるようになった彼ではあったが、書き順はバラバラで、保育園児か幼児の書くような字しか書けなかった。そんな彼の宿題には、英語の文章を日本語で書いたり、日本語の文章を写したり、というものが含まれていた。
ある宿題で、彼が私に、チェックしてくれと、その宿題のノートを持って来たことがある。
ノート一杯に、どう見ても、保育園児の書いたとしか思えぬ字が並んでいた。彼は必死に書いたのだから、笑ってはいけない。難しい漢字も書かれているが、漢字一文字が、ひらがなやカタカナの4倍くらいある。笑ってはいけない。私の隣に座り、ちょっと不安げに、でも、自慢げにしている彼。笑ってはいけない。私は、読み始めた。
“ その地価の上昇に伴い、家屋の売り手と買い手の間では … ”  ブブブブブ…。
必死でこらえていたのに、吹き出してしまった。隣で真剣にノートを覗き込むマイケル。笑いが止まらない。保育園児の字と、この複雑な文章の、不釣合い(ふつりあい)が、猛烈に、おかしいのだ。謝りながら、腹を抱えて笑った。訳を知ったマイケル、赤い顔して、ちょっとふくれて、でも、一緒に大笑いした。鼻のこと笑ったり、一生懸命にやった宿題を、腹抱えて笑ったり、私は本当に悪妻だ。
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# by yayoitt | 2004-11-11 19:33 | 国際結婚って... | Comments(0)