毛糸のパンツ
今日は風が強くて、とっても寒い。おなかも冷えるし、足も冷たくなる。
これはこれは、毛糸のパンツが必要と、私は日本で買ってきた毛糸のパンツを、ズボンの下にはいた。2枚買ったのだが、色違いで、ファンキーな星の柄のもので、形はショートパンツみたいなのだ。高校生が、ミニスカートの下にはいてた、あんなやつだ。これが実に、あったかい!足の先まで、暖かくなる!毛糸のパンツ、様様(さまさま)だ。
仕事中、靴を探してストックルームでしゃがんでいたら、後ろにいた同僚の女の子が聞いてきた。“やっこ、あんたズボンの下に、何はいてんの?”
シャツとズボンの間から、私のファンキー毛糸のパンツが見えたらしい。
しかも、赤、黄、赤のラインの部分が見えたものだから、彼女はかなり不思議に思ったようである。そこで、私は、シャツをめくり、ズボンを少し下げてみせた。彼女の目がまん丸になり、“マンマミーァ!!”と叫んだ。彼女はイタリアンスコットランド人で、自然に叫んだりする時はイタリア語になるのだ。マンマミーァは、オーマイゴッド(OH MY GOD)のイタリア版。
日本語で言う、“あんれ、まぁ”だろう。真っ赤な顔で大笑いする彼女、もうちょっとちゃんと見せて欲しい、と言ったので、ズボンのチャックを外して、全体の絵がわかるように、しっかり見せた。真っ赤な顔で、涙を流して笑う彼女の声を聞き、マネージャーの女性がやってきた。
私は彼女にも、最初は少し、そして、いかに温かいか説明しながら、またもやチャックを外して全体の絵を見せた。マネージャーも、涙を流して真っ赤な顔をしている。
“ばあさんが、履いてるような毛糸のパンツかと思ったら、星がチカチカ!はっはっは”
私は、涙を流し笑い続ける二人を前に、踊ったりしていた。そう、調子に乗りやすいのだ。
もとこの店で働いていたという女性が、たまたま店の前を通りかかったが、彼女もこの笑い声を聞いて、中まで入ってきて、私たちのところに来た。私は、この女性に会うのは初めてだったが、簡単に、はじめまして、と握手し、挨拶をして、マネージャーに言われて、その女性にも、また、ズボンのチャックを下ろして、毛糸のパンツを見せた。初対面の相手に、会って数秒後に自分のパンツを見せてるって、私…、とも思ったが、調子に乗り続けているので、気にならない。3人が、私の前で、腹を抱えて身をよじり笑っている。同僚が、涙を拭きながら、外に出て行った。私は、マネージャーと、初対面の彼女に、色々、毛糸のパンツに付いて語った。とってもおしゃれで、高校生の女の子が、ミニスカートの下にはいて、かわいいんだ、とか、決して、おばあちゃんが履くのとは一緒ではないんだとか、必死に説明した。
クレージー、クレージーと言われながら。チーン、と店のドアが開き、さっき外へ出て行った同僚と、その後ろに、隣の店(同じ会社だが、別の建物で隣同士)の21歳の男の子が入ってきた。そして、その彼が言った。“やっこ、毛糸のパンツ、見せて”私は、今度は真っ赤になりながら、“男には見せない、女だけの秘密だ、女同士の甘いシークレット”などと、意味不明なことを叫んだ。それを聞いて、レズビアンの友人を沢山持つ同僚がまた、“マンマミーァ!”と叫ぶ。彼は、“じゃぁ、僕のパンツ、見せてあげるから”と、シャツを上げ、ズボンの上から、パンツを引き上げて、バックスバーニーのパンツを見せてくれた。靴屋の店のど真ん中で、若い男の子がパンツを見せ、それに目を丸くして食い入るように見つめる、4人の女性達…。外からお客さんが見たら、なんだと思うだろう?結局、彼は、わざわざ隣の店に、自分のパンツを見せに来ただけで、帰って行った。私は、皆に、毛糸のパンツの絵柄は見せていたが、それが、足首までもあるモモヒキみたいなのだと思われたら嫌なので、彼女達を奥の部屋に呼び、今度は、言われもしないのに、ズボンをバッと下ろして、その全貌を見せた。
笑い疲れていた彼女達が、ヒーヒー言いながら、また笑う。前からと、お尻からと、更に調子に乗り、見せまくる私…。お客さんが入ってきて、とっさにズボンを、急いで上げる私…。
毛糸のパンツは、良い、パンツ。
# by yayoitt | 2004-11-18 19:05 | 英国暮らしって... | Comments(0)
お城が消える夜
家の台所の窓からは、お城を望むことが出来る。旦那は、食事をする時に、窓み向かう形でテーブルにつく。私は、彼の向かいに座るので、窓に背を向ける形で座る。彼は、窓から見える、このお城の景色がとても好きだ。食事中に、“うぅぅぅぅん。城が綺麗だぁ。”と目を細めて、スパゲティーをくわえながら言う。その度に、私は、“えぇえ?”と、スパゲティーを口に垂らしながら、背中を反らせて城を見る。
数年前に比べ、この窓とお城との間に、幾つか新しいフラットが建ったものの、幸運なことに、城はそれに邪魔されず、全貌を見ることが出来る。暗いと、明かりが灯り、ぼんやり浮いた感じで、とっても綺麗だ。昼間は、古い石で出来たこのお城と城壁は、黒っぽくて遠くからだとパッとしないのだが、夜は、はっきりと、その存在感が浮き上がっているのだ。
日中、私はよく城を見る。台所に立ち、シンクに向かい、皿を洗いながら、野菜を洗いながら、城を見る。家の下には大きな共同の庭があり、その向かいには、一個立ちの家が3件並んでいる。ボケーっと、城を眺めていると、向かいの家に住む、おじいさんとおばあさんが、やはり窓辺に二人で立って、指をさして、私を見ていることがある。それに気が付くと、私はすぐさま、背伸びをしたり、グラスに水を汲み、ごくごく飲んだりするのだ。彼らが、私がジッと彼らのことを見ていると思われては嫌なので、急遽(きゅうきょ)そんな行動をとってしまうのだ。
わざわざ、大声張り上げて、“ハロー!こっからのお城の眺めは最高でぇ。”なんて言うのは恥ずかしい。もしかしたら、おじいさんとおばあさんも、うちのアパートの反対向かい側に建っている、大きな煙突を指差して見ているだけかもしれないし。
イギリスのバッキングガム宮殿から、何か行事や、祝い事、避暑などで、クイーンや皇族が城に来ていると、この城に、大きなユニオンジャックの旗があがる。
ユニオンジャックの旗は、イギリス、スコットランド、北アイルランドの旗が融合したものだが、
私はやっぱり、スコットランドの旗、青地に白の斜めのクロスが入ったもの(St,Andrews)か、黄色地に赤のふちどり、中央に赤のライオンがあるもの(Rampant Lion)が、好きだ。
今夜、旦那が食事をしながら、悲しそうにつぶやいた。“城が、消えた。”
焼いたナスの入ったパスタを口から垂らしながら、私はグリュッと身体をよじて、窓の外を見た。城がない、消えた。深いもやで、城は消えてしまったのだ。
今日一日、霧雨のような雨が降り続け、夕方までには、街をすっぽりと深い霧が覆ってしまったのだ。城どころか、向かいの家のおじいさんとおばあさんも見えない、明かりがポッと浮かぶだけだ。この風景を見て、私は、昔のことを思い出した。

田舎の病院の看護学校にいた時のこと。
その看護学校は、全寮制だったので、週末だけ私は家に帰った。遠くから来ている生徒達は、週末もずっと寮で過ごしていた。高校卒業してからの3年間、多感な時期をここで友人や先輩、後輩達と共に過ごした。楽しいことも一杯あったけど、嫌なことも沢山あった。田舎の街には、大きなビルや、壮大な夜景はなかった。それでも、私は友人と、夜になると屋上に上がっては、星を見たり、散らばる電灯の明かりを見ては、色々な話をして過ごした。好きな人の話、将来の話、音楽の話…。その屋上は、病院の真向かいに建っていた寮の5階にあったので、早い時間帯には、患者さんから見られることもあった。だから、屋上の暗い場所を選び、ラジカセを持ってきて、レベッカを聞きながら踊ったり歌ったりもした。そんな田舎街の5階から見える夜景の中で、私がとても気に入っていた光景があった。それは、山手に建っている大きなボーリング場の夜景だった。その建物の周りは山だけで、他に明かりがなく、建物を照明が下から照らしていたので、それはまるで、真っ暗な空に浮かぶ、飛行船のようだったのだ。キャプテンハーロックが乗っていた様な、あんな宇宙船のようでもあった。1人でも、毎晩、必ずその宇宙船を見に行った。試験勉強の合間に、1人、嫌になって部屋を抜け出し、宇宙船を眺めて溜め息をつく。その頃から、海外への夢や思いが強かったので、レベッカの“ロンドンボーイ”を口ずさみながら、ジッと眺めた。数年後いつの間にか、その飛行船は、周りの新しい建物の明かりに邪魔されて、消えてしまっていた。
感受性の強い青春時代を、どれだけ、この光景に思いを寄せては過ごしたことだろう…。
今、その頃に憧れていた外国の地で私は、文句を言ったり、愚痴を言ったりしている。
古い建物の美しさを見たり、夜景を見ながら過ごす時間より、道に落ちているゴミのことを不満に思ったりして暮らしている。
旦那が好きだと言った、そのお城が、消えた。
そんなことから、色々なことを思い出し、また、考え直させられる、霧の夜。
# by yayoitt | 2004-11-17 19:07 | 思い出 | Comments(0)
幼少の頃の思い出 クリスマス 2
父と母は、共働きだった。その頃、お母さんが働いているという家庭は、比較的少なかった。
私は、保育園や学校から帰って来た時の、誰もいない暗い家の中が大嫌いだった。
年を取ったおじいさんがいたが、いつも自分の部屋でテレビを見ていて、私が1人で家にいる時に、顔を合わすことは、余りなかった。母は、親戚の呉服屋で着物を売ったり、お客さんにお茶を出したり、反物をたたんだりしていた。そこには、私より小さな女の子の従妹が2人と、男の子が1人いて、母は、その子供達の“もり”もしていた。暗い家に帰って、1人でテレビを見ながら、よく私は、こらえきれない嫉妬心で一杯になったものである。私のお母さんは、私よりも、いとこ達のことが好きなんだ。子供の頭で、それが仕事という考えが出来ずに、ただただ、悔しい思いをしていた。保育園から帰って、毎日、覚えた番号を廻して、有線(電話で、その町内だけ掛けられる)で、母に電話しては、毎日毎日、同じことを母に言っては、困らせた。“いつ帰ってくるの?”“今、何しとるの?”“なんで、そこに行かんならんの?”
母は、それでも怒らず、私の同じ質問に答えては、最後は笑いながら、“よし、もう切るでな、いいかぁ?”と言って、私がぐずぐず言っても、“じゃぁなぁ”と電話を切った。こんな甘えん坊の私の電話は、それでも毎日、必ず呉服屋の店で、チーン、チーンと鳴るのだった。
父はとても働き者で、プロパンガスの小さな会社で働いていた。
重いガスのボンベを配達する父の細い腕には、カチカチのちからコブが、どっしり乗っていた。よく、父が腕を曲げて見せるちからコブを、私はゲンコツで叩いては、思う以上にそれは硬くて、“いってぇー”と言っては、顔をしかめたものだ。父は、とてもよく動き、また、走れば速く、飛べば高く飛べる人だった。そんな父は、クリスマスの数日前には必ず、クリスマスケーキの箱を2つ抱えて、仕事から帰って来る。
会社で、ボーナスとして、クリスマスケーキを2つ、もらっていたのだ。
一つは、我が家様であるが、もう一つは、親戚のおじさんの家にあげていたのだ。
二つのケーキは、クリスマスまで2日間ほど、寒い玄関の、新聞が重ねておいてあるその上に、大事に乗せられていた。子供の私達は、二つのケーキが、どこから来たものなのかは知らなかったが、両方とも、自分達が食べれるものと信じていた。その頃のケーキは、まだ、生クリームが出回っていなかったので、バターケーキという、甘い、でも、硬いクリームのケーキだった。上には、赤いボタンのような玉と、サンタの形のロウソク、そして必ず、チョコレートで出来た雪をかぶった家が置かれていた。12月20日を過ぎると、玄関に、その二つのケーキの箱が現れる。姉達と、父や母に見つからないように、中を見る。
“わぁぁぁぁ”
二つ目の箱も、中を開けて見てみる。
“わぁぁぁぁ”
全く同じだが、ロウソク臭いサンタがやっぱり、乗っていると、瞳を大きく見開き、3人で興奮する。姉が、そっと、指でクリームに触る。硬いけど、強く指でこすれば、コソッと、はがれてくる。花の模様のクリームの部分を、3人それぞれ、はがして舐(な)める。
あっまぁぁぁい!
私達は、一つの箱のケーキだけ、ひどくくずれていたら、両親にすぐわかってしまうと言って、二つ目の箱も開け、同じ様に、指でくずして舐めた。姉は私を抱きながら、ころころ転がるほど喜び、甘い、甘い、と笑って舐め続けた。
数日後に、その箱が玄関から消え、姉達が一つ目の箱のケーキを、父と母の目の前でドキドキしながら開ける頃、山奥に住む父の兄の家で、私達の舐め続けて形が崩れたもう一つのケーキの箱を開け、田舎の村のおじちゃんと、おばちゃんは、どんな風にそのケーキを眺めたのだろうか。それでも、従姉の一人娘のすみちゃんは、手を叩いて歓喜してたに違いない。
そして、私達がくずしたクリームの硬い壁を、同じ様に指で、グリッと撫でては“甘い、甘い”と笑ったのだろうか。
# by yayoitt | 2004-11-16 19:15 | 思い出 | Comments(0)
幼少の頃の思い出 クリスマス
泣き虫も、グズグズも、なおらないけど、それなりに年を重ねていった子供時代。
小学校は高学年になった頃から、私は、気弱な自分を守る一つの方法を取得していた。
それは、ピエロ、になって、馬鹿なことをしたり、人を笑わせることで、友人を作ることだった。
内弁慶(うちべんけい)の私は、家では、両親や姉達を笑わせていた。おもしろい顔をしたり、こうすると、お父さんは笑う、とか、これをすると、姉ちゃんは笑う、ということを敏感に覚えていった。家での経験を重ねる一方、沢山、漫画本も読んだのだ。
特に、梅図かずお の “まことちゃん”は、沢山読んだ。
向かいの家に、姉達と同じくらいの年のお姉ちゃんが二人いて、彼女達が、まことちゃんの本を沢山持っていた。その家は、おもちゃ屋で、そのお姉ちゃん二人に、年の離れた弟がいたが、その弟は私と同級生であった。おもちゃ屋の子供、なんて、小学生の頃の子供にとっては、夢のようであり、クリスマスイブには、その子の枕元には、山ほどおもちゃが並ぶのだろうと想像した。9歳頃までは、サンタクロースという存在を信じていた私であったが、あるクリスマスイブの夜、夕食後、イブという雰囲気と、9時になったら皆でケーキが食べられる、という現実に浮かれて、テレビのある部屋で、1人で踊っていた時のことだった。玄関で、誰かの小さな声がした。誰だろう?と思って、玄関に出ようとする私を、姉が突如押さえつけ、裏から母が走って飛んできた。明らかに、私1人に隠し事をしているという雰囲気だったので、私も必死に、玄関に誰がいるのだろう、と姉の腕の中、もがいた。玄関と茶の間をさえぎるガラス戸が、少し開いていた。私は、姉の手を握ったまま、呆然とその隙間に見える光景を見ていた。
向かいのおもちゃ屋のおばちゃんが、真っ赤なつるつるした包装紙にくるまれた箱を母に手渡し、ぼそぼそ何かを言い、今度は、母がおばちゃんに、何か小さな、手に隠れてしまうほどの物を渡したのだ。それは、お金だった。そのまま、おばちゃんが帰っても、母は玄関からしばらくの間、中に入ってこなかった。私は翌朝、枕元に置かれた、昨夜見たのと同じ、赤い包みの箱を見て、特に何も悲しいとか、がっかりしたとかは、感じなかった。その箱の中に入っていた、私が母に欲しいと言っていた、おもちゃのキッチンシンクは、3日ほどで、水も出なくなり、壊れてしまった。そのおもちゃ屋の男の子の枕元には、クリスマスは、ますます沢山のおもちゃが並ぶんだ、と思い始めた。いつも、その同級生を羨ましく思っていたものだ。
彼は今、家を継ぎはしたものの、おもちゃ屋は継いでいない。
彼は今になって、こんなことを言った。
“俺な、いっつも、やっこちゃんの家がうらやましかったんや。うちは、自営業やったやろう?
だから、家族で、どこにも遊びに行ったりってことがなくって、やっこちゃんの家族が皆で出掛けるのを、指くわえて、見とったんや。”
自営業のおもちゃ屋の彼の家は、お父さんが他の事業も始めて成功し、とても裕福だった。
目に見えて、家は大きく立派になり、子供が持っている物も、私達姉妹のそれとは違い、高価な物だった。おしゃれなチワワ犬を飼っていた。
私の両親は、とにかく出掛けるのが大好きで、古い車で、家族全員でどこへでも行った。
裕福ではなかったが、時間があれば父と母は、子供達を連れ出しては、紅葉を見に行ったり、滝を見に行ったり、どこかで大きなツツジが咲けば、皆で出掛けた。母がおにぎりを作り、みかんを持ち、お茶を水筒に入れ、チョコレートを買って、出掛けた。向かいの家から、そんな私たち家族の笑顔を、ジッと見ている彼を、25年近く経った今まで、知らずにいた。
彼は今、会社に通い、子供を育て、年老いていく親の面倒を診ている。
# by yayoitt | 2004-11-15 19:17 | 思い出 | Comments(0)
やっこ、歯医者に行く 2
旦那が、笑顔で、待合室に帰ってきた。笑っている。終わったから、いいさ、笑えるさ、ふんっ。私の地獄は、今からさ、ふんっ。旦那が優しく言った。“僕と、一緒に、行こうか?”
“うん、お父さん、一緒に来てぇ”手を引かれて(実際に手は引かれていないが、そんな気分で)、彼の後を歩き、治療室に入る。明るい、大きな窓から、一杯に日差しが差し込んでいる。若い、看護婦さんが、何も喋らず、ニコニコして椅子に座っている。さっきの、金髪の歯医者の若い女の人が、綺麗な笑顔で私に話しかける。
“逃げなかったね?オッケー、じゃぁ、今日は、とりあえず、まず全体の歯を見てみようね”
うっ、優しい♪“ご主人から、あなたは、幾つか歯に問題があるって聞いたけど…。まぁ、この椅子に掛けて”水色のナイロンの長椅子(治療用の椅子)に掛けた。
旦那は向かいの椅子に座り、なにやら、冗談を言っている。
私は、口の中を見せる前に、日本での今までの治療の話や、今回、前歯がどうやって欠けたか、という話をした。金髪の歯医者は、真剣に私の話を、時々眉間に皺(しわ)を寄せて、うなづきながら聞いている。 うっ、優しい、理解がある!
ジョーズのテーマ曲から、その時には、頭の中は“ビヴァルディーの四季、春”が流れている。私の話を聞いて、彼女は、今まで見てきた、日本人の患者さんの歯の治療のことを色々、私と旦那に説明する。日本の最近の歯科治療がいかに進んでいるか、でも、治療しすぎなところがある、というような話だった。彼女が、腫れ物に触るように、そぉっと私に言う。
“オッケー、じゃぁ、今からまず、口の中を見るからね、リラックスして、見るだけだからね”
頭の中で、ジョーズが戻ってくるが、自分で、四季の春に代えられるくらい、落ち着いていた。
私は、いつも、新しい歯医者で必ず最初に言うように、“とにかく、ひどい歯をしているから、叫ばないでね”と言った。彼女は、少し笑いながら、“大丈夫、大丈夫”、旦那は椅子に座ったまま、クスクスと笑った。しばらく、真剣に、念入りに、口の中を見回した後、金髪の彼女は言った。“彼女が言うほど、そんなに、実際はひどくはないわ。でも、歯茎の問題に関しては(歯茎に幾つか膿胞を作っているのだ)、写真をとってみなきゃ、はっきりしたことは言えないんだけど。”その後、彼女が色々、歯の治療後の話をし始めた。
“…で、根っこの治療をした後は、6に1の割合で、それは死んでしまうですね…”
旦那が、すかさず、“患者が?”と聞いた。今まで黙って椅子に座っていた、若い看護婦さんが、ブッ!と噴き出した。歯医者の彼女も笑いながら、“ははは、患者じゃなく、歯がね”
私も、笑った。“今日は、これだけよ。”
ビヴァルディーの四季、春は、最高潮の部分を奏でている♪
一般に歯科医には、そのレントゲン(特殊なもので、パノラマ状に映すもの)がない。
だから、この歯科医から、エーデインバラのデンタルホスピタル(歯科病院)に依頼をし、デンタルホスピタルが、いつ、写真を撮りにきたらよいか、電話で私に連絡してくれる。そして、その写真を持って、次回の予約に、本格的な治療をする、ということなのだ。
私は、もうニコニコだ。痛いことは何もなく、今日の、初の予約の時間はすんだのだ。
まだ、治療のちの字も、していないのだが、これで、歯医者の雰囲気も、歯医者がどんな人かもわかった。それに、その歯医者が、私の歯を見て叫ばなかったし、おまけに最後に、部屋を出る時に彼女はこう言ってくれた。“とっても、歯を大切にしてるわよ”
本当は、叫ばれるような歯なのに…。お金を払って、金髪の彼女にお礼を3回も言い、私は手まで振って、旦那と二人で外に出た。
朝の強い風、家を出る時は、嵐の前触れのように思えたその風も、歯医者の戸を開けて外に出た時には、まるで暖かなそよ風のように感じた。次の予約は12月第2週、金髪の彼女は40分という、長めの時間を私にとってくれた。本当の治療の始まりは、その日なのだが、もうどうでもいい。その時に、また、おなかをこわしたり、脈拍140くらいになったりするだろうが、その時に悩めばいい。大事なことは、
1. 今日の歯医者が終わったこと。
2. 歯医者が、明るい雰囲気だったこと。
3. ドリフのコメディーのような歯医者じゃなかったこと。
4. 先生が、とっても優しい人だとわかったこと。       である。

ターラッタッターラリラァ、タラッタッタッターラリラァ。(四季 春)
# by yayoitt | 2004-11-14 19:21 | 英国暮らしって... | Comments(0)
やっこ、歯医者に行く 1
歯医者に行く、このタイトルに、私がBGMをつけるとしたら、絶対に“ジョーズのテーマ”だ。
♪チャ――ラ、チャ――ラ、チャーラ、チャーラ、チャーラ、チャーラ、チャラチャラチャラチャラ♪
私は、歯がとっても悪い。
歯が悪いから、歯医者が怖いのか?歯医者が怖いから、歯が悪いのか?
相互関係というところだろう。でも、決して、歯医者が悪いから、歯が怖い、訳ではない。
こんな私が、歯医者を予約した。歯医者の一番の恐怖は、初めて行く歯医者のその初日である。まず、医者が、どんな人かわからない。雰囲気が、どんな風だかわからない。看護婦さんが、優しいかどうか、わからない。とにかく、色々な想像をする。
昔、ドリフターズのコメディー(一年に2回ほどやっていた特集)で、“もしも、OOOな 飲み屋がいたら”というようなのがあった。
ちょうど、こんな感じで、新しい歯医者に初めて行く時には、色々な歯医者を想像するのだ。
***“もしも、怒りやすい歯医者がいたら…”***
これは一番、嫌だ。私は、歯医者が、“こんなになるまで放っておいて”とか、“歯が悪いのは、全部、あんた自身の精!”などと、怒られるのではないかと、いつも、ビクビクしている。
自業自得だ、と、ドリルでガリガリ削られたら、どうしよう!ひゃぁぁ!
***“もしも、決断力の弱い歯医者がいたら…”***
これも、嫌だ。“ちょっと、ここ、削りたいんだけど、でも、どうしよう、なんか、いいかな?本当に、削っても…”“でも、痛いだろうな、きっと、でも、削らなきゃいけないし、どうしようかな?”
私が有無言わない様に、サッと決断してくれないと困る。
***“もしも、気の弱い歯医者がいたら…”***
私は、歯に自身がないので、いつも、新しい歯医者には前もって、かなり歯が悪いので、びっくりしないで、と言う。でも、気が弱い歯医者で、“あへあへあへあへぇ”と、私の口の中を見るなり、卒倒されたら、傷つく。
昨夜は、まるで、くくられる首を綺麗に洗うように、念入りにシャワーと歯磨きをした。
何もかも、パーフェクトな状態でないと、歯医者で、上手く行かない、そんな気がするからだ。
夢の中で、二度、歯医者に行き、一回は、麻酔の注射を打ってもらったけど効かなかった。
何本も打ってもらうけど、効かない、そんな夢だった。私は、注射の痛みは全く平気で、一番怖いのは、歯を削られることなのだ。注射は、痛いけど、痛い理由がわかる、明らかだ。
針が歯肉に刺さるから、また、液が硬い歯肉に入っていくから、痛いに決まっている。
それに、“はい、今、痛いよ!”と、痛い瞬間がわかる。それに比べて、歯を削るのは、いつ、痛いかがわからない。痛くないかもしれないけど、痛いかもしれない。ドリルが、徐々に中央の神経に近付いていって … ぎゃっ!“痛かったら、手を上げて下さい”??冗談じゃない、絶対に、痛くないように、約束して下さい、お願いします(涙)、なのだ。いつ来るかわからぬ痛み、あれほど、怖いものはない。頭の中で色々、歯の内側を想像する、そこにドリルがクルクル廻りながら食い込んでいく…。だから、ちょっと削るのも、必ず麻酔の注射を打って欲しい、と頼むことにしている。今朝、再びシャワーを浴び、熱いミルク一杯のコーヒーだけ飲んだ。とても、食事なんか、のどを通らないからだ。気を落ち着かせようと、コーヒーを飲んでいる間、脈拍を測ってみた。1分間に、126回もある。普段は、70台くらいだ。
また、トイレに何度も行った。トイレに行っても、またすぐ、おなかがゴロゴロいって、すぐトイレに戻る。私は、全くの、正真正銘、弱虫なのだ。旦那と二人、同じ時間に予約してあったので、強い風の朝、家を出た。家を出る時、ノーマンの顔を見る。次にこの顔を見る時、私はきっと、歯医者が終わって、ニコニコしているだろうな…。歯医者は、歩いて3分くらいのところにある、とても新しい歯医者だ。待合室は明るく、中からは、ラジオの歌と共に、男の先生の笑い声が聞こえる。待合室には、子供向けの本がいろいろあったが、カラフルなそのかわいらしい本や、ぬいぐるみの犬を見ても、もう、私の心を楽にするものは、この時点では何一つない。逃げれば楽だが、また、同じ苦しい朝をいつか迎えなくてはいけない。男の先生が出て来た。眼鏡を掛けて、ジーンズをはいて、とても若くて優しそうだ。少しだけ、気持ちが軽くなった。今度は、金髪の若い女の先生が出て来た。綺麗で、エーデインバラアクセント、かわいらしい人だ、笑っている。そして、“ミセス&ミスター ***?”と私達の名前を呼んだ。
二人一緒に入りたいか、それとも、別々でよいか、と聞かれたが、私はきっと莫大な時間がかかるに違いないと、信じていたので、旦那が先に行ってもらうことにした。旦那が先生と中に入っていく時に、私は“その間に、逃げてしまっているかもしれない”と、冗談半分、半分真剣に、言った。二人は、さわやかな笑顔で、“逃げないようにねぇ”と言った。彼女が私の歯医者とわかっただけで、気分はかなり楽になった。奥の部屋から、旦那と、彼女の楽しく笑って話す声が、そして、彼女が、日本にいたことを聞いて、興味深げに色々質問する会話が聞こえてきた。楽しそうだ、それに、彼女は、とっても優しい感じだ。また、胸のかげりが、だいぶ晴れていくのがわかる。歯医者に対する不安とは、とっても精神的な苦しみである。
実際に、現代では、痛みの経験はかなり少なくなって来ているものの、私の幼少時代の歯医者は、決まって痛かった。しかも、私の故郷の小さな町には、3軒しか歯医者がなかった。
一つは、目のほとんど見えない年寄りの歯医者(うわさでは)、
一つは、熱心な余り、虫歯があると必ず、患者を叱る歯医者、
そして、私の行っていた歯医者(うわさ、評判がとても良かった)だった。
この歯医者の雰囲気というのが、昔の古い木で出来た冷たい感じの暗いもので、待合室にもサメの歯型が飾ってあるだけで、畳の上に、本も色々置いてあったが、医療関係(歯科ダイジェスト、みたいなイメージ)の雑誌が殆どだった。歯を削るのに、もちろん、麻酔など使わないので、歯医者に行く=何か痛いことがあったのだ。歯医者の椅子は、まるで電気椅子のようだったし、何一つ、心を落ち着かせてくれるような物は、その空間にはなかった。小心者でちびり屋で、怖がりの私は、いつも必ず泣いて、更に抵抗した。母と、看護婦さんとで、両手を椅子の後ろで抑えられ、両足も抑えられての治療だった。大きくなるにつれ、泣いたりわめいたり、歯医者の股間を蹴ったりは、さすがにしなくなったものの、その思い出は、いつまでもトラウマになって、記憶は鮮明に蘇るのだ。実際に、どれだけ痛かったかは、もう忘れてしまっているのに、どれだけ、怖かったか、という精神的な恐怖心は忘れないものだ。
# by yayoitt | 2004-11-13 19:25 | 英国暮らしって... | Comments(0)
POPPY APPEAL DAY 11月11日11時
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11月11日は、ポピーアピールの日である。
ポピーは、花のポピー。アピールは、訴える、願う、の意。
10月中旬から、このアピールは始まっている。
街を歩く人々の胸には、その真っ赤なポピーの花が付けられている。
お年寄り、若い女の子、高校生、実に大勢の老若男女が、ポピーを付けている。
この、ポピーの日の始まりはこうである。
1921年に、初めての公式軍のポピーデーが、英国でもたれた。
これは、JOHN MCCRAE(ジョン マックレイ)という人の書いた、IN FRANDERS’FIELDS(フランダースの戦場)という詩にちなんだものだ。それから毎年、11月11日のポピーアピールは、英国国民の記念の日となった。第一世界大戦の、最も残虐な戦場の一つに、フランダース(北仏、ベルギー西部、オランダ南西部)がある。ポピーの花は、唯一、その、完全に荒廃した戦いの跡地に、咲いた花であった。JOHN MCCRAE は、カナダの軍隊と共にそこにいた医師で、深くその光景に心を動かされ、1915年に、その詩を書いた。
1918年11月11日午前11時、第一次世界大戦は終結した。
人々は、平和と自由の為に命を亡くした人たちのことを、いつまでも忘れないように、と願った。その頃、アメリカの国防長官 MOINA MICHAEL(モイナ マイケル)が、JOHN MCCRAE の詩に感激し、ポピーの花を友人に売り、その売り上げを、元兵隊団体へと寄付をした。そこから、この習慣が始まったのだ。
1922年、少佐 GEORGEI HOWSON という若い歩兵が、身体障害者の社会(組合)を設立、第一次世界大戦で障害者となった、元兵士の男女を助ける働きを始めた。彼は軍に、障害者の組合のメンバーが、ポピーを作ることが出来ることを提案、ポピー工場が、ロンドンのリッチモンドに建てられた。オリジナルのポピーは、障害者であっても作れるように出来ており、その形と作り方はは、今も尚、昔のそれと同じである。
この時期、私は、少し複雑な思いをする。私は、母方の祖父を、戦争で亡くしている。
一枚の写真でしか知らない祖父。母は今もよく、彼のことを語る、彼と最後に交わした言葉、彼との最後の映像。幼かった母の脳裏に、そして心に、深く刻まれているのだ。
11月11日、私は、知らない祖父を、思う。また、日本人として、罪悪感と責任感を感じる。
日本といえば、第二次世界大戦では、ドイツと同じ、悪名高き残酷な兵士の行為で有名だ。
私はそのことを、日本を出るまで、正直言って知らなかった。広島、長崎、東京の大空襲と、被害者としての日本しか知らなかったのだ。でも、日本を出て、日本兵が何をしたかをテレビで(日本では絶対に映さないだろうと思われる映像や元兵士の話)見たり、直接、オーストラリアにいる時に、ホストファミリーの友人から、“あなたに直接恨みはないけど、日本が戦争で私達の祖父達にしたことを、決して許さない”と言われたり、韓国の男の子から、彼の祖父や父親がどう日本人に扱われたか、という話を聞いて、初めて、加害者日本を知ったのだ。
とっても、ショックだった。その事実に対するショックと、それを今まで知らなかったことに対するショックだった。   11月11日11時。
仕事中であったが、同僚とのおしゃべりをやめ、ラジオをつけた。教会の鐘が鳴って、2分間の黙祷をした。被害者、そして加害者である、日本人として。兵隊で餓死した祖父を思って。
やめられない人間の悲しき癖、戦争の、本当の意味での終結を祈って。      

          In Flanders' Fields
           John McCrae, 1915

      In Flanders' fields the poppies blow
       Between the crosses, row on row,
      That mark our place: and in the sky
      The larks, still bravely singing, fly
       Scarce heard amid the guns below.

       We are the dead. Short days ago
      We lived, felt dawn, saw sunset glow,
      Loved and were loved, and now we lie
          In Flanders' fields.

       Take up our quarrel with the foe;
       To you from failing hands we throw
       The torch; be yours to hold it high,
        If ye break faith with us who die
      We shall not sleep, though poppies grow
          In Flanders' Fields
# by yayoitt | 2004-11-12 19:30 | 英国暮らしって... | Comments(0)
うちの旦那と日本語
合計3年半、日本に滞在した、私の旦那、マイケル。彼の日本語、リスニングはかなり上級だと私は思う。名詞をびっくりするくらい沢山覚えているので、時々、ひやっとさせられる。
大学卒業後、ずっと外国人に英語を教える仕事をしてきている彼は、今もエーディンバラの英語学校で教えている。この夏、彼が受け持ったクラスの日本人生徒の女の子達が、彼に質問した時のこと。“COMPLICATED と DIFFICULT の違いは何か?”
彼女達は、彼が日本にいたことは全く知らなかったらしいが、
彼は、“DIFFICULT はぁ、難しい、ね。でぇ、COMPLICATED はぁ、複雑、ね。”と答えたらしい。女の子達はとってもびっくりしたらしい。私も、驚いた。難しいは、知っているにしろ、複雑、という名詞を知っていたのには驚いた。なんで、そんな言葉を知っているのか?と尋ねると彼は、“ オバタリアン から教えてもらった。”と答える。私の故郷で個人の英語教室を開いていた時、2クラスほど、高年齢のおば様方のクラスがあったのだ。だから、いつもそのクラスのことを、オバタリアンのクラスと彼は呼んでいた。オバタリアンクラスの一つは、私の母が生徒の1人だった。ちなみに彼は、私の母のことを、名前で、ちゃん付けで呼ぶ。
また、(唐突だが)彼は大きな鼻を持っている。
鼻なし、と私を呼ぶくらい、彼の鼻は存在感があるのだが、いわゆる、鷲鼻(わしばな)なのだ。私が姉と電話で、冗談で“どうせ、マイケルはあの鼻だから…”なんて話していると、隣の部屋から、“僕のNOSE(鼻)が、何?”と聞いてくる。これならわかるまいと、飛騨弁たっぷりで話しても、何の話題を話しているか、ということは理解する。そうそう鼻の話は、彼の前では出来やしない、ふんっ。私の父は、かなり方言が強いのだが、彼が車の中で、誰かの交通事故の話や、プロパンガスの売り上げの話なんかしても、マイケルは、大体の意味を理解する。彼のリスニングの良さは、才能だと思っている。その反対で、私はリスニングがかなり弱い。日本語でも、聞き間違いや、人の話を聞いていない、と指摘を受けるだけに、彼のリスニングの良さには頭が下がる。マイケルの希望もあり、彼の日本語力が極端に低下してしまわないように、時々日本語で話す時間を設けている。日曜日の午後、スーパーマーケットまで大きな買い物をするのに、二人ででっかいリュックを背負って、片道15分ほど歩く間、日本語オンリーの時間としている。彼のスピーキングは、私の話し方に似ている。私の日本語を側でずっと聞いてきたので仕方がないが、いわゆる、ちょっと女言葉だったりするからおもしろい。日本で、山登りをした時のこと。
すれ違う人々に挨拶をするのだが、彼もせっせと、“おはようございます”“こんにちわ”と言っていた。でも、彼の挨拶は、語尾が伸びるのだ。
“こんにちわぁー♪”“ご苦労様ぁー♪”“おはようございまぁす♪”
しかも、日本語を話す時の彼の声は、妙に高い。そう、私の日本語を真似しているから、声は高く、語尾も伸びているのだ。これが、やけに、かわいい。でっかいずうたいで、でっかい鼻で、女の子のような声で話す彼の日本語。ここに、彼得意の飛騨弁が加わると、絶妙である。“あのなぁ、マイケルはぁ、昨日ぅー、パブにぃ、お酒をぉ、飲みにぃ、行くさ。”
現在、過去、混じってても、かわいい。訂正するのがかわいそうなくらいだ。彼は、ここで3年前に、週一で日本語のクラスで勉強していたことがある。その頃の、彼の日本語の宿題というのが、かなり難しかった。何とか、ひらがな、カタカナを書けるようになった彼ではあったが、書き順はバラバラで、保育園児か幼児の書くような字しか書けなかった。そんな彼の宿題には、英語の文章を日本語で書いたり、日本語の文章を写したり、というものが含まれていた。
ある宿題で、彼が私に、チェックしてくれと、その宿題のノートを持って来たことがある。
ノート一杯に、どう見ても、保育園児の書いたとしか思えぬ字が並んでいた。彼は必死に書いたのだから、笑ってはいけない。難しい漢字も書かれているが、漢字一文字が、ひらがなやカタカナの4倍くらいある。笑ってはいけない。私の隣に座り、ちょっと不安げに、でも、自慢げにしている彼。笑ってはいけない。私は、読み始めた。
“ その地価の上昇に伴い、家屋の売り手と買い手の間では … ”  ブブブブブ…。
必死でこらえていたのに、吹き出してしまった。隣で真剣にノートを覗き込むマイケル。笑いが止まらない。保育園児の字と、この複雑な文章の、不釣合い(ふつりあい)が、猛烈に、おかしいのだ。謝りながら、腹を抱えて笑った。訳を知ったマイケル、赤い顔して、ちょっとふくれて、でも、一緒に大笑いした。鼻のこと笑ったり、一生懸命にやった宿題を、腹抱えて笑ったり、私は本当に悪妻だ。
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# by yayoitt | 2004-11-11 19:33 | 国際結婚って... | Comments(0)
怖いもの
私は、大きな音が、嫌いだ。特に、突然の大きな音が、大嫌いだ。
…汽車の汽笛が、怖い。駅に近い道を歩いていて、突然、汽笛が鳴ったりすると、飛び上がるくらいビックリして、あと、1人だけキョロキョロと挙動不審(きょどうふしん)になる。
…花火の爆発音が、怖い。
楽しめるのは、線香花火や手で持つ花火で、下に向けてパラパラ散ってくれる花火だけ。
昔よくやった、へび花火(通称 ウンコ花火)なんか、何の音もたてないから、何ていい花火だ、と思う。
…クラッカーの音が、怖い。
もしも、自分が主役のパーティーで、皆が手に手にクラッカーを持って“おめでとーう”などと、パンパンやったら、おしっこ漏らして逃げるか、泣いてしまうに違いない。まだ、後者の方が、言い訳の仕様がある。
…シャンペンのふたの抜ける音が、怖い。
これには、音だけでなく、昔のある思い出が結びついている。クリスマスイブの夜、父がシャンパン(甘い、クリスマス用の子供も飲める)を家族の注目の中、得意げに開け始めた。
怖がりの私は、耳をふさいで、しかも、大声で叫んでいた。
“パパぁ、絶対に、人に向かって、フタ飛ばさんといてよぉ!”家族が輝かしい目で父を見つめる中、冗談じゃなく本気で、目を細めて体を縮めて、1人だけ泣きそうになっていた。ポン!という、かわいらしい、軽快な音の後、勢いよく飛んだフタは、低い天井にぶち当たって跳ね返り、他の家族のメンバーがニコニコ手を叩く中、私の頭を直撃したのだ。運の悪さを背負っているに違いない、頭に666と数字があるのかも知れない、とその時から思い続けている。
と、とにかく、私は大きな音が怖いのだ。
故郷の病院で看護婦をしていた独身の頃、親友と二人で、毎年2回(春と秋)、車で旅行に出掛けていた。彼女の軽自動車で、高速を走りまくり、長野、伊豆、富山、山梨県は大和村、熊の古道など色々な場所へ行った。そのうちの旅行で、どこか忘れてしまったが、遊園地に行った時のこと。3Dとか、感覚を使う、アトラクションが大好きな私は、初めて見る、不思議な部屋のアトラクションに惹かれた。それは、聴力を刺激するもので、真っ暗の部屋の中には、壁に向かって6つ椅子があり、その椅子の前には大きめのイヤホンがあるだけだった。親友は、怖いから、と言って入らなかったのだが、私は“何を馬鹿な”と、一人で入った。
注意書き:
1 心臓の弱い方にはお勧めしません。“ 毛が、生えとるわい ”     
2 途中でどうしても怖くて、出たい時はこのボタンを押して下さい。 
“ なんて、大袈裟な、はっはぁん、こんなこと書いて、怖がらせようって手か、フンッ”
その部屋には、私1人、ブザーが鳴った。イヤホンから、風の音、そして、何かが近付いてくる音。そして、私の背後からそれは来て、右側に立ち、そして今度は左に立ち…。何も見えないのに、耳から、怪獣の声が聞こえるうううう!しかも、その音は大きくなり、耳が痛い。
救出ボタンを押したいけど、途中で救出されたら、部屋の前で待っている友人や他の人達に、まるわかりだ。でも、この怪獣は、私の耳を食いちぎるかもしれない!ひゃぁぁあああ!
…急に明るくなり、なみだ目で叫んでいた私に、鼻毛のちょろちょろ出たおじさんが言った。
“ねぇちゃん、終わりっ”腰が抜けそうなのを隠して、へらへら笑いながら、部屋の外に出る。
親友が怖そうな顔をして待っていた。彼女は聞いた。“だいぶ、怖かったの?”
“うーん、ちょっとは怖かったかな”すまして言った。“でも、やっこ、すっごい叫んどったよ”
★ ゴーン ★  スピーカーで中の声が外に流してあったらしい。イヤホンで耳を塞いでいたので、ちょっと叫んだつもりが、実は大声で叫び倒していたらしいのだ。この経験から私は、自分の耳のことを色々考えるようになった。大きな音が怖いだけじゃぁない。私は、基本的に怖がりで、ちびり屋で、小心者だ。それに加えて、耳が敏感なのだ。大きな音、小さな音、関係なく耳が敏感にとらえる音達が、不快であると感じる程度が人一倍、強いのだとわかった。それなのに、毎日、耳かきをしないと気が済まないのは、何となく矛盾している気もするが…。
# by yayoitt | 2004-11-10 19:38 | 思い出 | Comments(0)
BEN LEDI 登頂 2
沼地は広くて、まるで QUICK SAND(底なし沼)のように、足を踏み入れると深く沈む。
霧がたちこみ、風が強くなり、周りにさえぎる木々はなく、MOOR(荒地)である。
思い出すのは、ロードオブザリングで、フロードとサムが、ゴラムに案内されてモードーに向かって歩く光景だ。登山靴に黒い水がしみ込む。足を一歩、また一歩、沼地から抜きながら歩いた。頭の中は、3つのことで一杯だ。
1つ … ここをどうやって、あの小さなジャックラッセルは歩くのだろう?
2つ … 靴はやっぱり、ゴアテックス素材かシンパテックス素材に限る(職業病だ)
3つ … サンドウイッチ、どこで食べよう?
急に、風が強くなり、視界はほとんどない。5分前まではあんなによく晴れて景色が綺麗だったのに、今は、風に吹かれて鼻水流している旦那の顔しか見えない。この山には、幾つかの FALSE PEAK(偽せ頂上)があるとガイドブックには書いてある通り、4ヶ所、“やったぁ!頂上だ!イェーイ!”と叫んだが、すぐその目の前に更なる道が続いていた。5つ目のピークで、“今度はだまされるもんか、くそ”と思っていたら、そこが頂上だった。結局、5回全部、私はだまされた。えーっと、何々、ガイドブックによると…“この BEN LEDI の登山の最大の魅力は、その頂上からパノラマに広がる素晴らしい景色である”五里霧中だ、パノラマに広がる、白い霧と、強風に吹かれて斜めに立っている人々の姿のみ。大き目の岩の陰で、風を逃れて、旦那と座り、真っ白い空間をぼんやり見つめながらポテトチップスをムシャムシャ食べた。それでも、達成感は気持ちがいいもので、二人とも満足はしていた。
凍えそうに寒いので、ポテトチップスだけ食べて、早々に下ることに。
霧の合間に、二つの人影と小さな影が!ジャックラッセルとあの夫婦が頂上に来たのだ。
ジャックラッセルは、相変わらず、飛び跳ねるようにして、シッポを振りながら主人の前を歩いている。どやって、あの沼地を歩いたかはわからずじまいだが、無事、登頂できて、よかったよかった。また、沼地をジャボジャボ歩き、岩のごつごつを手で撫でながら下りて行く。
沼地を過ぎると、急に風は止まり、視界が戻った。振り向くと、真っ白のガスに覆われた私達の下りて来た道、この山の頂上付近だけがガスっている。見渡しても、辺りの高い山々は全て、明るい光に照らされているではないか。確かに、この山は、この辺りで一番高い山ではあるが、こんなに天気のいい日に、どうしてその部分だけが曇っているのか、不思議でならなかった。下りは、登山の中で、私の一番の苦手部分だ。両膝に、すぐに痛みが来る。普段それほど、弱いと思わないのに、山を下ると、膝が自分の弱点ということがよくわかる。また、美しい光景を見ながら山を下り、約5マイル(8㌔)上り下り合計3時間半ほどで、出発点に帰って来た私達は、かなり早く歩いたらしい。平坦な道に出ると、二人ともまだ歩き足らない感じがしたので、マシューに迎えに来てもらう代わりに、村まで歩いて帰ることにした。そこから村までは、大きな湖を挟むようにして、車道と、自転車、歩行者用の道がある。そのサイクリングロードをまっずぐ村まで、8マイル(13㌔)ほど。日は高いし、足はまだ軽いし景色は良い。
日本にいる時、二人で、私の実家のある町から、飛騨高山まで、約16㌔を歩いたことがある。炎天下だったので、かなり暑かったが、楽しかった。その数週間後には、私の友人達のビアガーデンが飛騨高山であり、飲んだ帰り、最終列車もなくなった夜中、またもや二人で、16㌔を歩いて帰った。この時は、涼しかったし、朝焼けが綺麗だったものの、私はスカートにヒールのある鼻緒の付いたサンダルだったので、途中で裸足で歩いた。
二人とも、歩く、ということが妙に好きなのだ。もちろん、車がない、という大きな“理由”はあるが。平らだが、急な傾斜の登山後の 8マイルは結構きつかった。特に、最後の2マイル(3.2㌔)は、トイレに行きたいのと、足の疲れで、かなり精神的にも身体的にも疲労していた。
旦那が教えてくれる、英語のハイキングソングを覚えながら、ただただ、歩いた。
夕日が、雲を抱えてちぎれていくのを見ながら … オシッコがしたい
周りの山々がピンク色に染まるのを望みながら … オシッコがしたい
湖の静かな表面を、鳥が震わせて飛び立つ音を聞きながら … オシッコがしたい
頭の中は、オシッコ という言葉で埋め尽くされる。旦那の歌を楽しそうに歌っても、おなかに響く。見渡すと、木々の間に、ちょうど隠れてオシッコできる場所が…そう思って、よし、と山手へ向かいだすと、必ず誰かが自転車でやってくるのだ。“ハロー♪”明るく声を掛けやがる。結局、村まで持ちこたえた。付かれ切ったその夜、姉達と初めて明るく、楽しく、旦那の教えてくれた歌を一緒に歌った。

ONE MAN WENT TO MOW,(♪ある男が草刈に行った)
WENT TO MOW A MEADOW,(♪ 草刈に行った)
ONE MAN AND HIS DOG,(♪ある男とその犬が)
WENT TO MAW A MEADOW.(♪草刈に行った)
TWO MEN WENT TO MOW,(♪二人の男が草刈に行った)
WENT TO MOW A MEADOW,
TWO MEN,ONE MAN AND HIS DOG,
WENT TO MOW A MEADOW,
.........と、男の数が増えていき、最後は
TEN MEN WNET TO MOW,
WENT TO MOW A MEADOW,
TEN MEN,NINE MEN,EIGHT MEN...
...TWO MEN,ONE MAN AND HIS DOG,
WENT TO MOW A MEADOW. 

こんな歌を、オシッコしたくてしたくてたまらない時、歌ってられるか! 
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# by yayoitt | 2004-11-09 19:40 | 英国暮らしって... | Comments(0)
BEN LEDI 登頂 1
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旦那の姉、ジェニファーとご主人マシューの家に滞在3日目の日曜日。計画していた登山をすることにした。彼らの村は、スコットランドはハイランドの入り口なので、ちょっと足を延ばせば、色々な山にアクセスすることが出来る。日曜日は天気予報も“くもり”と、雨ではないので、絶対に登山はすることと決めていた。私と旦那は、大の山登り好きである。どこに行っても、そこに、登れる山がある限り、私達は、登るのだ。朝からとても良い天気となったので、距離的にも長い山を選ぶことに。なだらかに見える、でも、頂上付近は険しい岩に囲まれる山々のうち、その付近では一番高い山へ行くことにした。BEN LEDI(ベン レディ) という山だ。
BEN は、スコットランド語で、山、という意味なので、LEDI山、である。
スコットランドには、自然を現す幾つかの独特のスコットランド語がある。
LOCK(ロックと発音したいとこだが、このクの部分は鼻から空気を抜くような音、フッとクッの間の様な音である)は、湖。ネッシーで有名になったネス湖は、LOCH NESS である。
GLEN(グレン)は、小谷、渓谷で、山々に囲まれたスコットランドには、美しい有名なグレンが幾つもある。そのうちの一番有名なのが、GLEN COE(グレンコー)であろう。
日曜日の朝、村の唯一のお店でパンを買い、サンドウイッチを作り、水とポテトチップス、チョコレートを買って、大きなリュック(私が背負う)に小さなリュック(旦那が背負う)を背負い、マシューに車で登山入り口まで送って行ってもらった。天候上々!とても暖かい!青空!イヤッホー、ホーットラッラッラ♪かなり浮かれている。ガイドブックによれば、BEN LEDIは2883フィート(約880メートル)、登頂まで約2-3時間ということだ。歩き始め、まずはウッドランド(木々に囲まれた林の中)をしばらく歩く。私は、山登りという点では、この林歩きが、とても苦手である。ただただ木々ばかりで、もちろん美しいのであるが、頂上を目指す時、いかにこのウッドランドを抜け出すかが、目標達成の第一目標となるのだ。林の中は風も通らず、開け広がる景色もないので、前を見ずに、ただただ歩くことにしている。30分後、ウッドランドを抜け出し、そこからは、登れば登るほど広がる景色を堪能しながら、ひたすら頂上を目指す。とても人気のある山だけに、沢山の登山客に道中出逢った。途中、ご夫婦と小さなジャックラッセルが一緒に登っていたので、ちょっと犬のことで立ち話をした。国は違っても、山でのマナーは同じ様で、山ですれ違う時は皆がお互いに挨拶や声を掛け合う。日本の山でもこれは徹底しているので、山登りの大きな魅力の一つでもある。もちろん、登り途中でハーハー言っている時に、下りの人から明るく“こんにちわ!”と声を掛けられても、挨拶出来ないことはあるが。こんな時、下りの人は、登りの人が喋れそうな雰囲気かどうかわかるまで、声を掛けない方が賢明と、いつも思う。登る度に、見える景色が広がる。最初は木々ばかりの低い山しか見えなかったのに、10分後には、姉達の住む村が見える、そして、更に10分後には、観光客でにぎわう町、カレンダーが、そして、スターリンという、更に大きな町が向こうに。
また、スターリン城も見えた。そして、信じられなかったのだが、エーデインバラのアーサーズシート(死火山)までが見えたのだ。このアーサーズシートが見えた、という話を姉夫婦は信じなかったので、ネットで調べたら、確かに“天気の良い日はアーサーズシートまで見える”と書いてあった。ジャックラッセルを連れた夫婦を追い越して、しばらく歩くと、BOG(沼地)に来た。
# by yayoitt | 2004-11-08 19:46 | 英国暮らしって... | Comments(0)
ジェニファーとマシュー
旦那のお姉さん、ジェニファーと、旦那さんのマシューは、田舎暮らしを始めてちょうど一年になる。ジェニファーは、都会暮らしが長く、キャリアウーマンで、買い物が大好き、友人とのお出掛け大好き、以前からよく、田舎では暮らせない、と言っていた。そんな彼女とご主人が、田舎に家を買ったと聞いた時には、私も旦那も、仰天したものだ。
その村は、人口300人という小さな村、村にはB&Bやホテルはあるが、店は、VILLAGE SHOP(色々な物がごちゃ、と置いてあるが、数はかなり少ない)一軒だけ。パブ件レストランが一軒、ホテル件レストランが一軒あるのみ。一番近い町は、車で20分ほど行かなくてはならず、そこにも、規模の小さなスーパーが一軒あるだけだ。元々、都会暮らしを愛してやまなかった彼女が、どうしてこの田舎暮らしに踏み切ったか、それは、ご主人の長年の夢だったからである。結婚前、まだ二人が出会う前、ジェニファーはロンドンからエーディンバラに仕事を見つけて、引っ越して来た。大学がここなので、ずっとエーディンバラに戻りたい、戻りたい、と言っていた。彼女は、それから数年、THE SCOTSMAN(彼女はジャーナリストをしている)という新聞社で働いた。その間に、同職のマシューに出会い、イギリスはブリストルで記者をしていた彼は、ジェニファーと同じ新聞社に仕事を見つけて、引っ越して来たのだ。
リップリーとバーニー(グレイハウンド)を連れて。数年二人でそこで働いたが、兼ねてから夢だった独立を一昨年に果たし、マシューの夢だった田舎暮らしを去年、始めることになった。
夢を次から次へとかなえていったのだ。独立すると、頼まれる様々な新聞や雑誌からの仕事を、なかなか断れず、彼らは一層、忙しい日々を送っているが、家で、年老いた犬を側に、コンピューターに向かう方が、大勢の人達の中でざわざわと仕事をするより、気持ちもいいはずだ。土曜も日曜もなく、仕事をする彼ら、私と旦那の週末滞在中、マシューは毎日書斎でコンピューターと向かい合っていた。ジェニファーは、土曜日だけは休みたいと決めて、その分、日曜に働いた。彼女は、その忙しい中、ブレッドメーカーを買ったので、毎日、パンを焼いている。彼女はヴェジタリアンなので、タンパク源を、豆や様々な種から採るようにしている。
彼女の焼くパンは、ひまわりやかぼちゃの種が一杯入って美味しかった。また、広い裏庭の一部を畑にしているので、そこで野菜も作り始めた。そこで出来た野菜でスープを作り、毎晩、オーブンで手料理を作る。暖炉には本物の火が入り、薪を燃やす。絵に描いたような田舎暮らしだが、それはのんびりしたものではなく、仕事に追われて、毎日、寝不足で疲れるものでもあった。また、不便で、欲しい物がすぐに手に入らなくもあるが、その分、都会暮らしでは手に入らない貴重な物を沢山持っている。目の前に広がる山、湖、空、動物達、空間、そして、自然の音。彼女達が住む村は、スコットランドの、いわゆる、よくある、小さな村。小さなコミュニティーで、誰もがお互いを知っている。そこには、皆から嫌われている人もいるし、人のゴシップを誰よりも先に言いふらす人もいる。そんな村に、静かさを、二人と犬との生活を求めて住み始めたジェニファーとマシュー、何かと不満はあるものの、幸せな顔をしているので、安心する。
# by yayoitt | 2004-11-07 19:47 | 英国暮らしって... | Comments(0)
Norman、 いとこ に会いに行く
金曜日の夜に、旦那のお姉さんの旦那さんが、車で迎えに来てくれて、彼らの家に週末を過ごしに出掛けた。
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彼らはもともと、このフラットに住んでいたのだが、二人の仕事の独立を機に、田舎へと引っ越したのだ。彼らの住む村は、STRATHYRE といい、EDINBURGH から車で約1時間半、お城で有名な STIRLING を抜け、小さいけど、観光客でにぎわうかわいらしい町、CALLANDER を過ぎたところに、その村がある。人口300名ほどの小さな村だ。
ノーマンも車に乗り、初めて、いとこ(グレーハウンドの男の子、女の子の2頭)に会うのだ。
車に乗り慣れていないノーマン、後部座席で、ずっと突っ張って立ちっぱなし。日本でも、飛行機に乗るため、故郷から成田へ長旅した時も、すっと座ることなく立ち続けていた。数回の車の旅では、必ず、嘔吐していたので、お兄さんの車の中では万全の体制で出掛けた…新聞紙、タオル準備オッケー、生あくびと、ぺろぺろ口の周りや鼻を舐めだし、お尻からは、緊張すると出る独特の魚の匂いを放ち、道中、ずっとノーマンを見ていたのだが、それは突如やってきた。それでも、新聞でとっさに受け止めた私。前に車の中で二度、嘔吐した時、ノーマンは何故か必ず、私の方に顔を向けて、私の側で吐いてくれた。今回もそうだった。
それまで私に背を向けていたのに、急にそわそわし出して、私の腰の辺りに顔をうずめるように、吐いたのだ。何とか新聞で受け止めたものの、ズボンとフリース、そして座席も汚れてしまった。あとはノーマン、かなり楽そうで、残りの旅をやはり突っ張ったままだが、何とか過ごした。小さな村に着いたのが8時過ぎ、まずは荷物を全て運び入れ、あとは、ゆっくり、ノーマンといとこ達の対面を見ることに。いとこ…もちろん、血の繋がりはない、でも事実上、旦那の子供(ノーマン)と、彼の姉の子供(リップリー、バーニー)は、いとこだ。リップリーがメスのグレーハウンド、白に黒のマークがある。バーニーはオスのグレーハウンド、全体に灰色っぽい黒だ。もともとは、お姉さんの旦那さんが飼っていて、結婚して、姉と共に暮らしているのだが、両方とも、元レース犬でリタイアして、レスキューされた犬たちだ。グレーハウンドは、目がよく、ウサギを追ったりするが、走るとそれはとても速いので、賭け事の一つ、レース用に飼育されるグレーハウンドが多いのだ。しかし、全速力で駆け回れる時期は短く、数年でリタイアの時期はやってくるのが常。その後は、残りの人生を、静かに楽しく過ごしてくれる主人が見つかるまで、グレーハウンドのレスキューセンターで過ごす。そこで、バーニーとリップリーは姉の旦那(マシュー)に出逢ったのだ。二匹とも、元レース犬なので、耳の内側に刺青がある。数年前、私達がエーデインバラに住んでいた時、何回も彼らには会っているが、若い方のリップリーは、ちょっと走らせると、それは速かった。今は、二匹とも、かなりのお爺さん、お婆さん になってしまった。特にお爺さんのバーニーは、現在15歳、グレーハウンドは比較的寿命が短いので、平均よりは4年も長く生きているらしい。私が二年間 日本に帰っている間、もう、バーニーには会えないものと、たかをくくっていたものである。私は二年ぶりに、そしてノーマンは初めて、彼らに会えるのだ!玄関に入ると、姉が立っている、その後ろに、そわそわと動く影、リップリーとバーニーだ。ちょっとまだ車酔い気分のノーマンが家に入る。    ||||| ここからは、ノーマンの心の中の声をお聞き下さい。 |||||
目の前に2つの大きな影、“馬か?鹿か?私の好きなリスじゃぁない、クンクン、犬だ、しかも年取った犬だ”バーニーは、久々に見た若い女の子に、我が震える足を忘れて、興奮している。“ここは何か、お爺さん、お婆さん臭いけど、このでっかいのはなんだろう?”
“あ、お爺さんが挨拶に来た、私もちゃんと挨拶しなきゃ、クンクン、うわ、やっぱりすっごいお爺さんだ!”“お婆さんも来た。このお婆さんは、ジッと私を見てるから、ちょっと怖いな。まだ、挨拶する感じでもないし”“あ、またお爺さんが来た、うわっ、ちょっとお母さん、お父さんの所に隠れよう”
… というわけで、初めての面会を果たした。
その夜は、ノーマンはかなり居心地が悪そうではあったものの、性格上、男勝りで縄張り意識の強い彼女は、私達の食事中のテーブルの下(このダイニングの、一つのコーナーをリップリーとバーニーが、対角線上のコーナーにノーマンのベッドを置いていたのだが)に、そして、応接間に、またまた、ダイニングの隅に、合計3回オシッコ(マーキング)をしてくれた。
怒られながら、しばらく無視されながらも、ジッと、リップリーとバーニーを睨むノーマン。
ここが誰の家なのか、決して、忘れちゃぁ、いけない。夜は深まり、周りの山々は黒く浮かび上がり、ただストーブの火がメラメラ燃える音だけがいつまでも響く。お姉さんの手料理とワインを楽しんで、火が消えるまで、犬達をなでながら過ごす時間が、とっても贅沢に思えた。
その夜、何回か怒られたノーマンは、幸せに私と旦那の布団の上で眠ることに♪
# by yayoitt | 2004-11-06 19:50 | 愛犬ノーマンのこと | Comments(0)
TOUCHING THE VOID
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昨夜、テレビで映画を見た。前々からうわさは聞いていたので、いつか是非見たい、と思っていた、ドキュメンタリー映画だ。2003年 “ TOUCHING THE VOID ” 英国の映画だ。
かなり話題を呼んでいたので、日本でも沢山の人々が、ウェブ上で評価したりしている。
本の出版が最初で、それを元に、映画化されたわけだが、部分ドキュメンタリー、部分リクリエーションで、本は(日本題名『死のクレバス アンデス氷壁の遭難』)、作者の実体験を元に描かれており、映画には作者本人と、彼の友人のクライマーが、解説に常に登場する。
本を書いたのは、JOE SIMPSON という英国人だ。
時はさかのぼって1985年、場所はペルーはアンデス山脈の高峰シウラ・グランデ (6356m)。英国人登山家 JOE SIMPSON と SIMON YATES は、若く、経験豊富で、
その山への試みは初めてであったが、3日間に渡る登頂の成功をおさめ、その下山中に、長い物語は始まった。深い雪と氷に覆われた山腹、彼らは真っ白く輝く世界を見渡しながら下山をしていた。下山と言っても、アイスの上を、ザイルを使っての下山だ。
JOE SIMPSON が、短距離ではあったが滑落してしまい、片足の骨を何本か骨折してしまった。レスキュー隊が来るチャンスは全くない為、パートナーの SIMON YATES が、JOE SIMPSON を引っ張って降りる、という、莫大な時間のかかる、しかも、痛々しい方法を取るしかなかった。SIMONは必死に、彼の怪我をして苦しむパートナーJOEを身体に下げたまま、アイスの上を降りていたのだが、彼の気付かない間に、後ろに引っ張られていたJOEの身体が、クレヴァスの入り口に来てしまう。そして、JOE の身体はクレヴァスへと滑り落ちる。深いクレヴァス、一度堕ちたら生還は出来ない、そこにぶら下がり、叫ぶJOE。そのJOEを必死で引き上げようと懸命になるSIMON。しかし、ぶらさがる身体の重みで、SIMONも、どんどんクレヴァスに引きずられていく。選択は、2つ。
1. そのまま、二人ともクレヴァスの中へ落ちていくか。
2. SIMONが、2人をつなぐザイルを切り、一人の死、1人の生を選ぶか。
SIMONは、クレヴァスへ自分の身体も近付いていくアイスの上、ザイルを切ったのだ。
深い冷たいクレヴァスに、自分の選択で、落ちていく友人の叫びを脳裏に焼きつけながら、SIMONは苦悩の下山をする。複数の骨折、そして、クレヴァスに落ちたJOE、なんと、彼が、深いクレヴァスの途中まで落ち、まだ生きていたのだ。しかし、骨折した足を抱え、充分な食料も水もなく、クレヴァスの深い溝の中、どうして生きて地上へ戻れるものだろうか。だが、彼は、その遭難から7日後、何と、SIMONと再会することになるのだ。この7日間の、SIMONのとてつもない罪悪感と自責の念、友人を自分の命を選択する為に死へと追いやったという苦しみ、一方、JOEの、生きることに対しての執念と信じがたい人間の身体、精神の力、苦悩の日々が始まるのだ。彼らが奇跡的な生還を果たして、英国に帰ってきた時、SIMON は、マスコミや国民から多くの非難を受けたという。それを JOE は、いつも否定し、SIMON の選択は正しかったと主張して来た。クライマーは、常に、選択をする。行くのか行かないのか?進むのか帰るのか?生きるのか死ぬのか?  
この選択は、もちろん、生きるを選択するに違いないが、このSIMONとJOEの状況で、クライマーが選択すべきこととは…。7日後の、変わり果てたJOEの身体を抱きしめながら泣くSIMONに、JOEは言う。“俺だって、同じ選択をしたさ”
この映画の中で、極限状態に陥ったJOEの、死に限りなく近い時期の経験が、とても興味深く、またユーモアがあり笑える。以前、日本でのヨットレースで遭難し、数人のクルーが救命ボートで漂流するという本を読んだことがある。食べ物も無い為、1人、また1人と、目の前で亡くなっていく仲間を見ながら、彼らの遺体を水葬し、最後に生き残った男性が、孤独、飢え、乾き、疲れと戦いながら、カモメを自力で捕って食べて、救出された日本人男性の話だ。
彼が救出された時も、“仲間の肉を食べたのか?”という、質問がマスコミからあがった。
タイトルを忘れてしまったが、救出後のマスコミとの葛藤や、リハビリの様子も興味深くて、忘れられない本だ。人間、死と隣り合わせになった時に、選択を迫られることは、歴史上よくあることである。自分だったらどうするか?必ず皆が、その映画を見て、また、本を読んで考える。私なら、どうしたか?
。。。。。。
映画の中で JOE が言っていた言葉が、忘れられない。
“死ぬのなら、1人では死にたくない。誰かの側で死にたい。”
彼の、死への願いが、彼を生かしたのかもしれない。
# by yayoitt | 2004-11-05 19:55 | 英国暮らしって... | Comments(0)
スコットランド風 従業員パーティー
エーディンバラに、私が勤める靴屋はある。
その靴屋のオーナーは、HIGHLANDER というメーカーの社長だ。
ハイランダーは、アーミーグッズを中心に、アウトドアー商品、キャンピンググッズなどを広く商品に持っている。この靴屋の隣には、靴以外のアーミーグッズ、キャンピング商品を取り扱う店がある。数年前までは、この店と、私の勤める靴屋とは一つの店舗だったらしいが、靴が沢山占めるため、隣の家に靴だけの店を設けたというわけだ。そして、この靴屋のオーナーは、ハイランダーの男社長で、隣の店は、社長の妻が仕切っているのだ。また、もう一軒、靴も何もかもごっちゃと売っている姉妹店が街中にあり、そこには従業員、常に1人が働いている。その店の従業員、店番を、32年間に渡ってやってきた女性が、今回、ご主人の他界を機に仕事を辞める、ということで、女ばかりの、食事会をすることとなった。女ばかりの、というのは、私の靴屋のマネージャーは女性、もう1人の従業員も女性、今回の食事会の発足人がこのマネージャー、隣の店には、男の子が現在2人働いているが、マネージャーの彼女は、何故か、いつもこういったことは女だけでやりたがるのだ。今回も、退職する彼女(リディア)、その娘(サンドラ)、マネージャー、私に加え、隣の店を仕切る社長婦人、その店の従業員の女の子、リディアの後を継ぐ女の子、そして、リディアと時々仕事をする女性(社長の義理の姉)と、女ばかり、8人が集まったのだ。店は7時半に予約してあり、まずは皆、靴屋に集まって、ワインとつまみ(nibble)を楽しんだ。店のど真ん中に、隣から、キャンピング用チェアーとテーブルを持って来て準備し、そこで皆で、新品靴の革の香りをさかなに、ワインを飲む。
私は、いつものごとく、ちょっとのワインで一気に真っ赤な顔になり、1人だけサウナに入ってます状態になったので、笑われた。リディアに、花束が渡され、皆が名前を列ねたカードも渡された。タクシーに分乗し、予約してあるチャイニーズレストランへ向かった。靴屋を出る時点で、女8人の間でワイン4ボトルが空っぽになった。私はなめるほどしか飲めなかったので、正しくは7人だ。しかも、1時間で。いつも、思う、私は間違った国に来たのではないかと…。
チャイニーズレストランの丸いテーブルを囲むように座った頃、社長の男性が現れた。
リディアに、最後に会いに行くから、と言っていたので、店に来るものと思っていたが、こちらのレストランへ直接来た。そして、1人従業員が来れない、ということだった為、彼も食事に参加することとなった。この社長は、私も数回会ったことがあるが、いつもスマートな装いで、静かに笑う、でも、ビジネスにはシビアだ、というイメージのある人だ。楽しい会話と、にぎやかな店の雰囲気に、前菜とメインコースをそれぞれが堪能し、10時近くになって、社長が一足先にと、席を立った。席を立ちながらリディアに、冗談まじりで“きっと、仕事に戻りたくなるだろうから、いつでも帰っておいで”と言った。かなり酔っている彼女は、ニコニコと微笑んでいた。その時、彼女の隣にいた娘、サンドラが口を開いた。サンドラは、美容師で40歳、見た感じも喋った感じも、きついイメージの女性だ。彼女は社長に言った。
“MOM は仕事を辞めて、本当に幸せだから、仕事に戻りたいなんて思うはずがない。”皆、笑って聞いている。“しかも、病気の時に、電話で、誰か代わりを自分で探せ、なんて言うボスの下で働くわけがないわよ”皆、???と思いつつも笑っている。社長が“え?なんのこと?”と聞き返した。“MOMが2年前に、軽い脳梗塞で、病院から朝あなたに電話した時、あなたは、自分で代わりを探せって言ったのよ。”皆の表情が、????に変った。
社長は、“僕は絶対にそんなことは言っていない、何かの間違いだよ”
“間違いなんかじゃないわ、私、MOMとその時一緒にいて、なんて社長なんだ、って腹を立てたのよ、ねぇ、MOM?”リディアは、ピンク色になって微笑みながら、“確かに社長はそう言ったよ”と答えた。皆、真顔になった。社長は立ったまま弁解する、そんなことは覚えていない、そんなこと言うはずがない、と。リディアは、確かにそう言った、と繰り返す、娘のサンドラは、そんな社長がいるもんか、と大声で喋り続ける。皆、テニスの試合を見るように、あっちからこっちへと顔が動く。周りのお客さんも、彼らを見ている。マネージャーの女性は、テーブルの白いクロスを頭からかぶって、“私はホリデーでいなかったから、知らない”と叫んでいる。私の隣に座っていた社長婦人は、ただジッとその様子を見ていた。罵声はないものの、サンドラはかなり酔って大声で喋り続ける。ちょっとした沈黙のすきに、社長は“まぁ、とにかく、よく頑張ってくれた、ありがとう”と、リディアの肩を叩いて出て行った。…………。
皆、お葬式のような顔だ。ずっと黙っていた社長婦人が、サンドラに言った。
“多分、何かの誤解だと思うわ。うちの主人は、決してそんなことを言うような人じゃないもの。”サンドラ “私はその朝、病院でパジャマ姿のMOMの隣にいたのよ。彼がそう言ったのは確かで、それからずっと2年間、いつか社長に面と向かって言ってやる!って思ってきたんだから。” 社長婦人は “でも、こういう場での発言ではないわ。彼の従業員の前で、友人の前で、恥をかかせるなんて。”私はサンドラと社長夫人の間に座っていたので、配られたおしぼりで遊ぶしかなかった。もう止まらないサンドラ、何とかしたい社長婦人、社長夫人を必死に止めるマネージャー。おしぼりで遊ぶ、鼻無し(自称 私のこと)。気を取り直し、ここに関わらない者が、世間話をし始めた。10時半をまわったので、そろそろ帰ろう、ということにもなり席を立ち始め、サンドラとお母さんのリディア、マネージャーだけ残ってワインをまだ飲みたいということだったので、それぞれに、お別れのキッスとハグ(抱くこと)をし合った。
サンドラが、社長婦人に、“ごめんね、ダーリン、でも、どうしても言わずにはいられなかったの”と、キッスとハグをしたが、社長婦人は、固い微笑で、“まぁ、まぁ、ただね、場違いだったと思うのよ”と。外に出て、冷たい空気を吸い、社長婦人達におやすみを言い、同じ方角の女の子と二人で歩いて帰りの途についた。25ポンド払って、美味しい料理を食べ、興味深い場面を見学し、おしぼりで遊んだ、こんな経験も、まぁ、いいもんかなぁ?ポーランド人の女の子と、ボーイフレンドの話や英語の難しさについて何のかんの、叩き合いながらの帰り道が一番楽しかった。お酒と社長は、一緒にしない方が、いい。
# by yayoitt | 2004-11-04 19:58 | 英国暮らしって... | Comments(0)