Norman、 いとこ に会いに行く
金曜日の夜に、旦那のお姉さんの旦那さんが、車で迎えに来てくれて、彼らの家に週末を過ごしに出掛けた。
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彼らはもともと、このフラットに住んでいたのだが、二人の仕事の独立を機に、田舎へと引っ越したのだ。彼らの住む村は、STRATHYRE といい、EDINBURGH から車で約1時間半、お城で有名な STIRLING を抜け、小さいけど、観光客でにぎわうかわいらしい町、CALLANDER を過ぎたところに、その村がある。人口300名ほどの小さな村だ。
ノーマンも車に乗り、初めて、いとこ(グレーハウンドの男の子、女の子の2頭)に会うのだ。
車に乗り慣れていないノーマン、後部座席で、ずっと突っ張って立ちっぱなし。日本でも、飛行機に乗るため、故郷から成田へ長旅した時も、すっと座ることなく立ち続けていた。数回の車の旅では、必ず、嘔吐していたので、お兄さんの車の中では万全の体制で出掛けた…新聞紙、タオル準備オッケー、生あくびと、ぺろぺろ口の周りや鼻を舐めだし、お尻からは、緊張すると出る独特の魚の匂いを放ち、道中、ずっとノーマンを見ていたのだが、それは突如やってきた。それでも、新聞でとっさに受け止めた私。前に車の中で二度、嘔吐した時、ノーマンは何故か必ず、私の方に顔を向けて、私の側で吐いてくれた。今回もそうだった。
それまで私に背を向けていたのに、急にそわそわし出して、私の腰の辺りに顔をうずめるように、吐いたのだ。何とか新聞で受け止めたものの、ズボンとフリース、そして座席も汚れてしまった。あとはノーマン、かなり楽そうで、残りの旅をやはり突っ張ったままだが、何とか過ごした。小さな村に着いたのが8時過ぎ、まずは荷物を全て運び入れ、あとは、ゆっくり、ノーマンといとこ達の対面を見ることに。いとこ…もちろん、血の繋がりはない、でも事実上、旦那の子供(ノーマン)と、彼の姉の子供(リップリー、バーニー)は、いとこだ。リップリーがメスのグレーハウンド、白に黒のマークがある。バーニーはオスのグレーハウンド、全体に灰色っぽい黒だ。もともとは、お姉さんの旦那さんが飼っていて、結婚して、姉と共に暮らしているのだが、両方とも、元レース犬でリタイアして、レスキューされた犬たちだ。グレーハウンドは、目がよく、ウサギを追ったりするが、走るとそれはとても速いので、賭け事の一つ、レース用に飼育されるグレーハウンドが多いのだ。しかし、全速力で駆け回れる時期は短く、数年でリタイアの時期はやってくるのが常。その後は、残りの人生を、静かに楽しく過ごしてくれる主人が見つかるまで、グレーハウンドのレスキューセンターで過ごす。そこで、バーニーとリップリーは姉の旦那(マシュー)に出逢ったのだ。二匹とも、元レース犬なので、耳の内側に刺青がある。数年前、私達がエーデインバラに住んでいた時、何回も彼らには会っているが、若い方のリップリーは、ちょっと走らせると、それは速かった。今は、二匹とも、かなりのお爺さん、お婆さん になってしまった。特にお爺さんのバーニーは、現在15歳、グレーハウンドは比較的寿命が短いので、平均よりは4年も長く生きているらしい。私が二年間 日本に帰っている間、もう、バーニーには会えないものと、たかをくくっていたものである。私は二年ぶりに、そしてノーマンは初めて、彼らに会えるのだ!玄関に入ると、姉が立っている、その後ろに、そわそわと動く影、リップリーとバーニーだ。ちょっとまだ車酔い気分のノーマンが家に入る。    ||||| ここからは、ノーマンの心の中の声をお聞き下さい。 |||||
目の前に2つの大きな影、“馬か?鹿か?私の好きなリスじゃぁない、クンクン、犬だ、しかも年取った犬だ”バーニーは、久々に見た若い女の子に、我が震える足を忘れて、興奮している。“ここは何か、お爺さん、お婆さん臭いけど、このでっかいのはなんだろう?”
“あ、お爺さんが挨拶に来た、私もちゃんと挨拶しなきゃ、クンクン、うわ、やっぱりすっごいお爺さんだ!”“お婆さんも来た。このお婆さんは、ジッと私を見てるから、ちょっと怖いな。まだ、挨拶する感じでもないし”“あ、またお爺さんが来た、うわっ、ちょっとお母さん、お父さんの所に隠れよう”
… というわけで、初めての面会を果たした。
その夜は、ノーマンはかなり居心地が悪そうではあったものの、性格上、男勝りで縄張り意識の強い彼女は、私達の食事中のテーブルの下(このダイニングの、一つのコーナーをリップリーとバーニーが、対角線上のコーナーにノーマンのベッドを置いていたのだが)に、そして、応接間に、またまた、ダイニングの隅に、合計3回オシッコ(マーキング)をしてくれた。
怒られながら、しばらく無視されながらも、ジッと、リップリーとバーニーを睨むノーマン。
ここが誰の家なのか、決して、忘れちゃぁ、いけない。夜は深まり、周りの山々は黒く浮かび上がり、ただストーブの火がメラメラ燃える音だけがいつまでも響く。お姉さんの手料理とワインを楽しんで、火が消えるまで、犬達をなでながら過ごす時間が、とっても贅沢に思えた。
その夜、何回か怒られたノーマンは、幸せに私と旦那の布団の上で眠ることに♪
# by yayoitt | 2004-11-06 19:50 | 愛犬ノーマンのこと | Comments(0)
TOUCHING THE VOID
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昨夜、テレビで映画を見た。前々からうわさは聞いていたので、いつか是非見たい、と思っていた、ドキュメンタリー映画だ。2003年 “ TOUCHING THE VOID ” 英国の映画だ。
かなり話題を呼んでいたので、日本でも沢山の人々が、ウェブ上で評価したりしている。
本の出版が最初で、それを元に、映画化されたわけだが、部分ドキュメンタリー、部分リクリエーションで、本は(日本題名『死のクレバス アンデス氷壁の遭難』)、作者の実体験を元に描かれており、映画には作者本人と、彼の友人のクライマーが、解説に常に登場する。
本を書いたのは、JOE SIMPSON という英国人だ。
時はさかのぼって1985年、場所はペルーはアンデス山脈の高峰シウラ・グランデ (6356m)。英国人登山家 JOE SIMPSON と SIMON YATES は、若く、経験豊富で、
その山への試みは初めてであったが、3日間に渡る登頂の成功をおさめ、その下山中に、長い物語は始まった。深い雪と氷に覆われた山腹、彼らは真っ白く輝く世界を見渡しながら下山をしていた。下山と言っても、アイスの上を、ザイルを使っての下山だ。
JOE SIMPSON が、短距離ではあったが滑落してしまい、片足の骨を何本か骨折してしまった。レスキュー隊が来るチャンスは全くない為、パートナーの SIMON YATES が、JOE SIMPSON を引っ張って降りる、という、莫大な時間のかかる、しかも、痛々しい方法を取るしかなかった。SIMONは必死に、彼の怪我をして苦しむパートナーJOEを身体に下げたまま、アイスの上を降りていたのだが、彼の気付かない間に、後ろに引っ張られていたJOEの身体が、クレヴァスの入り口に来てしまう。そして、JOE の身体はクレヴァスへと滑り落ちる。深いクレヴァス、一度堕ちたら生還は出来ない、そこにぶら下がり、叫ぶJOE。そのJOEを必死で引き上げようと懸命になるSIMON。しかし、ぶらさがる身体の重みで、SIMONも、どんどんクレヴァスに引きずられていく。選択は、2つ。
1. そのまま、二人ともクレヴァスの中へ落ちていくか。
2. SIMONが、2人をつなぐザイルを切り、一人の死、1人の生を選ぶか。
SIMONは、クレヴァスへ自分の身体も近付いていくアイスの上、ザイルを切ったのだ。
深い冷たいクレヴァスに、自分の選択で、落ちていく友人の叫びを脳裏に焼きつけながら、SIMONは苦悩の下山をする。複数の骨折、そして、クレヴァスに落ちたJOE、なんと、彼が、深いクレヴァスの途中まで落ち、まだ生きていたのだ。しかし、骨折した足を抱え、充分な食料も水もなく、クレヴァスの深い溝の中、どうして生きて地上へ戻れるものだろうか。だが、彼は、その遭難から7日後、何と、SIMONと再会することになるのだ。この7日間の、SIMONのとてつもない罪悪感と自責の念、友人を自分の命を選択する為に死へと追いやったという苦しみ、一方、JOEの、生きることに対しての執念と信じがたい人間の身体、精神の力、苦悩の日々が始まるのだ。彼らが奇跡的な生還を果たして、英国に帰ってきた時、SIMON は、マスコミや国民から多くの非難を受けたという。それを JOE は、いつも否定し、SIMON の選択は正しかったと主張して来た。クライマーは、常に、選択をする。行くのか行かないのか?進むのか帰るのか?生きるのか死ぬのか?  
この選択は、もちろん、生きるを選択するに違いないが、このSIMONとJOEの状況で、クライマーが選択すべきこととは…。7日後の、変わり果てたJOEの身体を抱きしめながら泣くSIMONに、JOEは言う。“俺だって、同じ選択をしたさ”
この映画の中で、極限状態に陥ったJOEの、死に限りなく近い時期の経験が、とても興味深く、またユーモアがあり笑える。以前、日本でのヨットレースで遭難し、数人のクルーが救命ボートで漂流するという本を読んだことがある。食べ物も無い為、1人、また1人と、目の前で亡くなっていく仲間を見ながら、彼らの遺体を水葬し、最後に生き残った男性が、孤独、飢え、乾き、疲れと戦いながら、カモメを自力で捕って食べて、救出された日本人男性の話だ。
彼が救出された時も、“仲間の肉を食べたのか?”という、質問がマスコミからあがった。
タイトルを忘れてしまったが、救出後のマスコミとの葛藤や、リハビリの様子も興味深くて、忘れられない本だ。人間、死と隣り合わせになった時に、選択を迫られることは、歴史上よくあることである。自分だったらどうするか?必ず皆が、その映画を見て、また、本を読んで考える。私なら、どうしたか?
。。。。。。
映画の中で JOE が言っていた言葉が、忘れられない。
“死ぬのなら、1人では死にたくない。誰かの側で死にたい。”
彼の、死への願いが、彼を生かしたのかもしれない。
# by yayoitt | 2004-11-05 19:55 | 英国暮らしって... | Comments(0)
スコットランド風 従業員パーティー
エーディンバラに、私が勤める靴屋はある。
その靴屋のオーナーは、HIGHLANDER というメーカーの社長だ。
ハイランダーは、アーミーグッズを中心に、アウトドアー商品、キャンピンググッズなどを広く商品に持っている。この靴屋の隣には、靴以外のアーミーグッズ、キャンピング商品を取り扱う店がある。数年前までは、この店と、私の勤める靴屋とは一つの店舗だったらしいが、靴が沢山占めるため、隣の家に靴だけの店を設けたというわけだ。そして、この靴屋のオーナーは、ハイランダーの男社長で、隣の店は、社長の妻が仕切っているのだ。また、もう一軒、靴も何もかもごっちゃと売っている姉妹店が街中にあり、そこには従業員、常に1人が働いている。その店の従業員、店番を、32年間に渡ってやってきた女性が、今回、ご主人の他界を機に仕事を辞める、ということで、女ばかりの、食事会をすることとなった。女ばかりの、というのは、私の靴屋のマネージャーは女性、もう1人の従業員も女性、今回の食事会の発足人がこのマネージャー、隣の店には、男の子が現在2人働いているが、マネージャーの彼女は、何故か、いつもこういったことは女だけでやりたがるのだ。今回も、退職する彼女(リディア)、その娘(サンドラ)、マネージャー、私に加え、隣の店を仕切る社長婦人、その店の従業員の女の子、リディアの後を継ぐ女の子、そして、リディアと時々仕事をする女性(社長の義理の姉)と、女ばかり、8人が集まったのだ。店は7時半に予約してあり、まずは皆、靴屋に集まって、ワインとつまみ(nibble)を楽しんだ。店のど真ん中に、隣から、キャンピング用チェアーとテーブルを持って来て準備し、そこで皆で、新品靴の革の香りをさかなに、ワインを飲む。
私は、いつものごとく、ちょっとのワインで一気に真っ赤な顔になり、1人だけサウナに入ってます状態になったので、笑われた。リディアに、花束が渡され、皆が名前を列ねたカードも渡された。タクシーに分乗し、予約してあるチャイニーズレストランへ向かった。靴屋を出る時点で、女8人の間でワイン4ボトルが空っぽになった。私はなめるほどしか飲めなかったので、正しくは7人だ。しかも、1時間で。いつも、思う、私は間違った国に来たのではないかと…。
チャイニーズレストランの丸いテーブルを囲むように座った頃、社長の男性が現れた。
リディアに、最後に会いに行くから、と言っていたので、店に来るものと思っていたが、こちらのレストランへ直接来た。そして、1人従業員が来れない、ということだった為、彼も食事に参加することとなった。この社長は、私も数回会ったことがあるが、いつもスマートな装いで、静かに笑う、でも、ビジネスにはシビアだ、というイメージのある人だ。楽しい会話と、にぎやかな店の雰囲気に、前菜とメインコースをそれぞれが堪能し、10時近くになって、社長が一足先にと、席を立った。席を立ちながらリディアに、冗談まじりで“きっと、仕事に戻りたくなるだろうから、いつでも帰っておいで”と言った。かなり酔っている彼女は、ニコニコと微笑んでいた。その時、彼女の隣にいた娘、サンドラが口を開いた。サンドラは、美容師で40歳、見た感じも喋った感じも、きついイメージの女性だ。彼女は社長に言った。
“MOM は仕事を辞めて、本当に幸せだから、仕事に戻りたいなんて思うはずがない。”皆、笑って聞いている。“しかも、病気の時に、電話で、誰か代わりを自分で探せ、なんて言うボスの下で働くわけがないわよ”皆、???と思いつつも笑っている。社長が“え?なんのこと?”と聞き返した。“MOMが2年前に、軽い脳梗塞で、病院から朝あなたに電話した時、あなたは、自分で代わりを探せって言ったのよ。”皆の表情が、????に変った。
社長は、“僕は絶対にそんなことは言っていない、何かの間違いだよ”
“間違いなんかじゃないわ、私、MOMとその時一緒にいて、なんて社長なんだ、って腹を立てたのよ、ねぇ、MOM?”リディアは、ピンク色になって微笑みながら、“確かに社長はそう言ったよ”と答えた。皆、真顔になった。社長は立ったまま弁解する、そんなことは覚えていない、そんなこと言うはずがない、と。リディアは、確かにそう言った、と繰り返す、娘のサンドラは、そんな社長がいるもんか、と大声で喋り続ける。皆、テニスの試合を見るように、あっちからこっちへと顔が動く。周りのお客さんも、彼らを見ている。マネージャーの女性は、テーブルの白いクロスを頭からかぶって、“私はホリデーでいなかったから、知らない”と叫んでいる。私の隣に座っていた社長婦人は、ただジッとその様子を見ていた。罵声はないものの、サンドラはかなり酔って大声で喋り続ける。ちょっとした沈黙のすきに、社長は“まぁ、とにかく、よく頑張ってくれた、ありがとう”と、リディアの肩を叩いて出て行った。…………。
皆、お葬式のような顔だ。ずっと黙っていた社長婦人が、サンドラに言った。
“多分、何かの誤解だと思うわ。うちの主人は、決してそんなことを言うような人じゃないもの。”サンドラ “私はその朝、病院でパジャマ姿のMOMの隣にいたのよ。彼がそう言ったのは確かで、それからずっと2年間、いつか社長に面と向かって言ってやる!って思ってきたんだから。” 社長婦人は “でも、こういう場での発言ではないわ。彼の従業員の前で、友人の前で、恥をかかせるなんて。”私はサンドラと社長夫人の間に座っていたので、配られたおしぼりで遊ぶしかなかった。もう止まらないサンドラ、何とかしたい社長婦人、社長夫人を必死に止めるマネージャー。おしぼりで遊ぶ、鼻無し(自称 私のこと)。気を取り直し、ここに関わらない者が、世間話をし始めた。10時半をまわったので、そろそろ帰ろう、ということにもなり席を立ち始め、サンドラとお母さんのリディア、マネージャーだけ残ってワインをまだ飲みたいということだったので、それぞれに、お別れのキッスとハグ(抱くこと)をし合った。
サンドラが、社長婦人に、“ごめんね、ダーリン、でも、どうしても言わずにはいられなかったの”と、キッスとハグをしたが、社長婦人は、固い微笑で、“まぁ、まぁ、ただね、場違いだったと思うのよ”と。外に出て、冷たい空気を吸い、社長婦人達におやすみを言い、同じ方角の女の子と二人で歩いて帰りの途についた。25ポンド払って、美味しい料理を食べ、興味深い場面を見学し、おしぼりで遊んだ、こんな経験も、まぁ、いいもんかなぁ?ポーランド人の女の子と、ボーイフレンドの話や英語の難しさについて何のかんの、叩き合いながらの帰り道が一番楽しかった。お酒と社長は、一緒にしない方が、いい。
# by yayoitt | 2004-11-04 19:58 | 英国暮らしって... | Comments(0)
やっこ流 お風呂の入り方
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日本のお風呂。あぁ、いいもんだ。私はこちらに引っ越してきてから、湯船に浸(つ)かったのは、2回だけだ。毎日、シャワーで済ましているので、湯船に浸かるのは、ちょっとした自分へのご褒美の時と決めている。こちらの家庭では、シャワーしかないか、湯船はあってもシャワーがないか、もしくわ両方あるか、に別れている。湯船しかない場合、昔はこれが主流であったが、今思うと、かなり洗い方が難しいと思われる。だから、湯船に入って、身体をごしごし洗うということが無いので、バブルバスにしてたわしで背中や足を洗ったのだ。よく、西洋の映画やドラマでその風景を見ては、憧れたものだが、実際には、かなり非現実的(特に綺麗好きの日本人、私達にとって)であったに違いない。だって、洗い流せないのだから。
私が日本で1人暮らししていた時、アパートにはユニットバスしかなかった。
また、ホテルはたいがい、同じ様なユニットバスであることが多い。その頃、いかに湯船の中で、最も機能的に、しかも水の無駄なく、綺麗に身体を洗えるか、を考えたあげく、出した答えがこれだった。 *1から10*
1. 湯船をためる。
2. 湯船に浸かる。
3. 湯が少しぬるくなったら、頭と顔も湯船に浸かる。(もぐる?)
4. 顔を洗う。(もちろん、座った格好で。もし、もぐった格好のままでは鼻に湯が入り放題なので)
5. 髪を洗う。(シャンプー)
6. シャンプーを洗い流す。(仰向けになって髪を洗い流す=他人から見るとかなり怖い風景)
7. コンディショニングをする。
8. 身体を洗う。(時には立ち上がり、時にはうつ伏せになり、狭い湯船の中で、頭をぶつけながらの格闘)
9. コンディショニングはそのまま、湯は、すっかりよどんでいる、少しそのまま、湯船の中でジッとしている。
10. ここで初めて、シャワーを使う。シャワーで、髪のコンディショニングと、身体の泡などを全部、洗い流す。
他人と、どうやって、ユニットバスを使うかという話題に、触れたことが無いので、これはもしかしたら、私だけのやり方なのかも知れない。湯が汚れていても、どうせ自分の垢(あか)。
フワフワ浮いて近付いてくれば、かわいいもんだ。
故郷の近くには温泉郷が沢山あり、その温泉には必ず、湯の花(奥飛騨温泉郷の温泉で、白く浮いている物)の説明がある。“奥飛騨温泉郷の一角から採取される「天然湯の花」は、 火山から噴出したおびただしい熱湯に含まれていた成分が沈澱・堆積することによって出来た石灰湯華と言われ、三葉虫や四射サンゴ等の化石を含む太古の地層を溶かしたもの”
そう、自分の垢も、三葉虫やなんじゃらサンゴの化石と、そうは変らんじゃぁないか。
今は、毎日シャワーばかりなので、疲れた時や、寒くて身体があったまらない夜などに、身体を洗う目的ではなく、リラックスする為に、湯船に浸かることにしている。昨夜はその2回目で、旦那の幼少時代の古いマンガ本(ピーナッツとスヌーピー)の一冊を持って、寝転がった。この湯船は、私(身長152センチ)が、湯から頭を出して寝転がっても、足が先に付かないので、かなり、湯船の中では不安定だ。気が緩むと、ドブン と顔ごと入ってしまう。だから、他人には見せられぬ様な格好、両足をガバっと左右に開き、両膝でバスタブに身体を固定する。そうしたら、ずりずりと、湯の中に沈むことは無いのだ。そんな、これまた恐ろしい格好で、スヌーピーを読んでいたら、ザブン と、本を落としてしまった。むかし憧れた、バブルバスの中、綺麗な女性が鼻歌うたいながら、長い柄の付いたたわしで足の裏や背中を洗うそれと、現実の姿は、ずいぶん違う。真っ赤な顔の小さな鼻無しが、大股開いて、必死に沈まないように格闘し、本を湯に落として慌てふためいているのだから…。
はぁぁぁ。リラックス、リラックス。

 ↓ は、そのバスルーム。 
# by yayoitt | 2004-10-31 05:25 | 英国暮らしって... | Comments(0)
スコットランド風 従業員の在り方
今朝、仕事に行き、隣のアーミーショップ(同じ会社で同じボスだが、靴以外のアーミーグッズやキャンピンググッズを売っている)に行った時のこと。
その店は、靴だけ売る、私の勤める店よりかなり大きい為、従業員の数も多い。売っている物が物だけに、従業員は殆どが男の子だ。店のボスは、うちの店のボス(男性)の奥さんで、日頃から、彼女がスタッフに言う文句や小言に、彼らはうんざりしている。従業員の1人は、昔風の兵士の格好をしていたので、何事かと思って聞いてみると、明日はハロウィンなので、今日一日その格好で働くとのこと。好奇心旺盛な私も、何か、おもしろい格好をしてくれば良かった、と後悔したが、まぁ、年甲斐もなく…と自分に言い聞かした。いつも、そこにいる、マネージャーの男の子に話があったのだが、彼の姿がない。“あれ?スチューは?”と尋ねると、兵隊の彼が、“昨日、WALKED OUT した”とのこと。WALK OUT は、歩いて出て行く、という意味だが、この場合、仕事を辞めた(しかも、急に勤めている場所を出て行く)という意味だ。先日の彼に、そんな素振りはなかったので、驚きはしたが、この国では、しょっちゅうあることなので、正直“へぇ、そっかぁ”という感じだった。以前から、マネージャーという立場なのに、女性ボスの彼女が、何かと口を挟み、自分で全て仕切ってしまう、マネージャーとして働く自分を信頼していないんだ、と、よく隣の私達の店に文句を言いに来ていた。話によると、昨日、普通に出勤した彼、ボスの彼女が仕事場に現れるのを待ち、店の鍵を彼女に返し、理由は言わず、“はい、僕の仕事は、これまで。じゃぁね”と言って、店を出て行ったらしい。
私が前に務めていたホテルでは、こんなことは毎日のようにあった。長年勤めて、ある日突然、ボスに“さようなら”と去って行く人たちの多いこと。スコットランドでは、従業員は、
DON’T TAKE SHIT FROM THEIR BOSS
= ボスから馬鹿げたこと(SHITは、クソのこと=スコットランド読みでシャイツ)は受け取らない  という態度が、強くある。自分のボスが理にかなわないことを従業員に要求するなら、絶対にそれはしない、ということだ。だからボスはある日、突如、従業員を失い、大慌てをすることとなるのだ。多分、他の国柄では、ボスに文句や不満があるなら、必ず口に出して言い合う、所も多いと思うが、この国は、普段はなるべく大きな喧嘩や言い争いは避け、ある日突然、従業員は立ち去って、ボスに痛い目を合わせる、ことが、実際は多いのだ。スコットランド人は特に、その過去、歴史からか、なかなか一度嫌ったこと、痛い目にあったことは、一生許さない、という傾向がある。もちろん、全員がそうではないが、国民性として、それは大きな特徴だと言える。その代わり、一度受け入れたり、心を開いたもの、好きになったものに対しては、いつまでも、献身的に温かく見守り、助けになってくれるのだ。
スチューは、ずっと、この女性ボスに、それとなく自分の意見は伝えていたが、彼女が改善の様子を見せないので、昨日の朝、彼女を待ち、“はい、これまでよ”と去って行ったのだ。
口で言ってもわからない人の下では働けない、我慢しては働かない、のだ。
クリスマスを前に、仕事を失った彼は、もちろん居心地が良いわけではないだろう。
しかし、彼女の下で我慢して働くよりは、自分が自分らしく働ける新しい場所を求める方が、解決なのだ。こういうスコットランド人の態度は、何も従業員とボスの間でだけではなく、サービス業と客、の間でも同じだ。例えば、レストランで食事をしていたお客さんが、何かしら気に食わないことがあるとする。それを店側に伝えても、満足したサービスがなかったとしたら、このお客はもう二度と戻っては来ない。店側にとっては、客を失う方が、文句を言われて、その場辛い思いをするより、実はもっと痛手なのだ。チップにそれは露骨に表れるので、サービスが不満なら、チップを置かない、置いてもほんの少しだけにして、不満だったことを表す。
また、先日の私の店番の時、5時半になり、店を閉めようとした時に男の人が数人入って来た。数分で店を閉めますよ、と伝えると、大きな声で“あんた、今これで、200ポンド失くしたね”と言い放って店を出て行った。彼らは多分二度と帰っては来ないだろう。まぁ、この例は、私の方が正当なわけだが、一旦、気に食わないと思った彼らは二度とそこでお金を落とそうとは思わない。
日本にいる時、前日にレストランを予約しておき、家族(両親、旦那と私)で食事に出かけた時のこと。予約した時間に店に入ると、予約のテーブルに、時間までお客を入れていた為に、そのお客がまだデザートを食べている最中で、店のマネージャーが、“あと、15分ほど外で待っててくれますか?”と平気な顔で言ったのだ。店は狭くて、その場で彼に言うのは、他のお客の邪魔になるので、とにかくその場を去り、外の車の中で待っていた。私と旦那は、カンカンだった。
理由1 予約は何があっても一番に優先されるべきである
理由2 予約をしてその時間に座れないのなら予約を受け付けるべきではない
理由3 自分達の利益の為に、予約時間まで時間があるからと、他の客を座らせるなら、予約の時間までと、前もってその客に伝えるべきであること
15分後、店からマネージャーが出て来た。彼の顔を見るなり、私は、上記のことを彼に伝えた。謝罪の言葉はあったので、私達は店に入っていった。もしここで、謝罪がなかったら、そのまま立ち去ろう、ということにしていたのだ、私と旦那の間で。両親はうんうんとうなずいて黙っていたが、最後は私達に同意した。サービス業は、客からの文句や不平を聞かない限り、改善もしないし、上達もしない。だから、店の為にも、文句、不平は言わなければならない、と私は思う。喧嘩ではなく、不都合があったならそれを伝える、ということは人間関係でなくてはならないことなのだ。それでも、改善がない時は、立ち去るのだ。相手側の改善がないとあきらめて、落胆し、立ち去る。そして、二度とは、戻らない。
# by yayoitt | 2004-10-30 05:29 | 英国暮らしって... | Comments(0)
幼少の頃の思い出 4
鍵のかからない、かけない玄関だったので、鍵っ子と言っても、鍵を首からぶら下げていたわけではない。嫌いな小学校を出て、大好きな、私が私でいられる場所、家、に辿り着く。
テレビを見て一人で過ごしていると、真ん中の姉が帰ってくる。真ん中の姉は、上の姉に比べてその頃、気も強く、けんかも強く、私には恐怖の存在だった。それでも、姉が帰ってくると、私はほっとして、姉の機嫌を伺う。彼女は、気が強く、怖かったけれど、べったりと引っ付く優しさがあった。ある午後、彼女が帰ってくると、彼女は近くの駄菓子屋で“源氏パイ”を買ってきてくれた。普段だったら、“はい、一番誕生日が近い人が買いに行くこと”とか、“はい、一番年の少ない人が買いに行くルール”とか言って、絶対に自分が行かなくてもいいような方法を誇示して、私も小さく愚かで、それに逆らえずにいた。
その彼女が、その日は、源氏パイを自ら買ってきたのだ。
しかも、私を抱えて自分の膝に乗せ、多分その日は土曜日だったのだろうと思うが、後ろから私を包むようにして畳に座り、一緒に源氏パイを食べながら、天才クイズを見たのだ。
この午後の思い出は、古い8mmビデオのように、所々焦(こ)げたりしながら、心の中に焼きついている。彼女は色々な物を集めていて、それは鉛筆であったり、消しゴムであったり、小さな私にとって、そのコレクションは、宝の山のように思えて仕方がなかった。彼女と長女の姉は、二階の一部屋を一緒に使っていたが、私は、姉達のいない時間にこっそり二階に上がり、真ん中の姉の領域(テリトリー)に進入し、饅頭が入っていた箱を開け、のどが興奮でカラカラになるのを感じながら、一日一本、と決めて、その鉛筆のコレクションを盗んだものである。デンジャラスゾーンに入ってしまった小鹿が、生きて帰るのは困難で、一日一本ずつ盗んでいれば、10日も経って、10本も鉛筆がなくなれば彼女も気付くわけで、部屋のない私の服やらおもちゃがかためられていた辺りに隠していた、色々な色や絵柄の鉛筆は、姉にすぐに見つかってしまった。
彼女達の部屋というのは、小さな私にとって、魅力的で未知で、いい匂い(想像だろうが)がし、大人で、楽しい、ものだった。でも、私が、毎日宿題やテストを抱える彼女達の部屋に入るのは、余り許可されていないのは仕方がないことで、それでも、障子の重い引き戸を開けては、入ってもいいか聞いた。真ん中の姉は、いつも勉強していた記憶がある。また、強烈な思い出に、私が二階に訪れている間に始まった、2人の姉の喧嘩がすごかったことがある。コタツに座り、向かい合わせで勉強していた彼女達、私はその真ん中で、2人を見るようなかたちで絵を描いていた。何から始まったのかよくわからないが、どちらかがカッとなり、相手の教科書に鉛筆で線を付けたのだ。すると、喧嘩は加速して、しかも、そのパワーは2倍になって返っていくのだ。最終的に2人の姉の教科書は鉛筆のなぐり書きのグニャグニャ線で真っ黒、しかも破れてしまっている。子供ながらに、教科書がグチャグチャという現実が、とても人道的にひどいことで、あってはならないこと、重大なこと、と思った私は、その2人の勢いの怖さもあって、それまでこらえていたが、2人の間に座ったまま、ギャァァァー!! と泣いたのだ。その声に2人は驚き、ぴたりとその喧嘩をやめてしまった。そして、2人は顔を見合わせて、ギャハハハ! と笑い出したのだ。そうなると、泣いた私は体裁が悪く、2人が笑っていることに、腹も立ってきたりもしたが、姉ちゃん達が大好きだったので、やっぱりつられて、ギャハハハ 笑った。私は、怖くて泣いたのだが、姉達は、私がどちらかの姉の為に泣いてくれたに違いない、と勘違いし、その後は、2人から、“私の為に泣いたんやろう?”“違う、な、私の為やな?”と問い詰められたが、本当の理由は言わずにいた。とはいえ、どちらかと言うと、もし応援するなら、怖い真ん中の姉よりは、上の姉を応援する、とも口が裂けても言えなかった。             SISTERHOOD 姉妹
私達は3人、今では何でも話すし、励ましあったり、けなしあったりして、どんなに遠く離れていても、いつも気にかけている。いつまでも、今でも、私は彼女達にとって、はな垂れの泣き虫、わがまま妹に違いない。
# by yayoitt | 2004-10-28 05:35 | 思い出 | Comments(0)
動物病院、最終の週
今週で、予約しておいた動物病院でのヴォランティア5週間が終了する。5週間と言っても、週に3日(月、火、金)だけで、15日間だ。この金曜日、あと一日で終了だ。
朝、込み合うバスを降り、9時前に病院に着くと、既にVET(動物の医者)のMr.Brownは診療を始めている。そして、早番の看護師は、電話に追われている。私は挨拶を済ませると、自分に出来る、掃除を始めることにしている。電話に出て、どれだけでも看護師を助けたいが、いまだに、電話で名前を言われるとスペル間違いしたり、また、特別用語なども知らないものが殆どで、二度手間にもなり、患者のオーナーに迷惑がかかるので、前に看護師達にお断りをしておいた。電話が鳴り響いて、看護師がそちらに奪われている間、何か私に出来るのは、掃除。外来側と、手術室側とに分けて、丁寧に掃除するのだが、私は結構この時間を楽しんでいるのだ。
理由1 家でほとんど掃除をしないから
理由2 寒い朝、掃除の後は、身体がポッカポッカだから
理由3 一日で、こんなにも動物の毛が溜まるのか、と驚くから
掃除が終わる頃、VETはまだ数人の患者を診ているので、ノックして、診察室に入り、見学させてもらう。診療台の上で、シッポを足の間に挟みこみ、震えているワンコや、VETの聴診器を爪で必死に引っかこうとしているミャンコ、オーナーはVETの話を真剣に聞いたり話したりしなければいけないので、その間、抱いたり、なでたりして、落ち着かせておく。数人の午前中の患者を診終わる頃は、もう11時近くだ。外来側には、手術を受ける猫や、点滴のいる猫の休むケネル(病室)がある。また、手術室の向かいには、犬の病室がある。手術の前のコーヒーブレークを皆でとるが、その頃には、ケネルは何頭かの猫や犬で埋まり、にぎやかになっている。誰がどんなコーヒーを飲むか、私も覚えたので、ここ数日は私がウェィトレスだ。
Mr.Brownは、彼のお気に入りのカップに、コーヒー大盛り3杯、砂糖大盛り3杯、ミルク一杯を入れる。そして、コーヒーが冷たくなって残っていても、決して捨ててはいけない。冷たいコーヒーを覚えていて、まだ飲み続けるから。11時半近くになって、コーヒーと患者(動物)の世間話を楽しみ、皆で、手術室へ向かう。彼の手術は、何度見ても実に見事だが、その理由は、とにかく傷が小さい、というところだ。メス犬の避妊手術の場合で、残る傷は、2cmほどである。大きな犬での、話。メス猫だと2mm程度。いかに傷を小さくするかが、彼の手術に対する一番の思い入れだ。そして、まず、手術の後によく犬や猫につける、傷を舐めるのを防止するわっか は、付けない。動物にストレスがかかるのと、傷が小さいだけに、余り必要がないという理由でだ。その代わりに、オーナーに、ちゃんと診ていてもらうように、と注意を促す。これで、オーナーと動物が一体になって傷の癒えるのを待つこととなる。彼は、いかに傷を小さくする為に、目で見るよりも、長年の感と手応えというものに頼り手術する。どういうことかというと、傷が小さいだけに、中の卵巣や睾丸を目で確かめられないので、その小さな傷から、長い器具をグッと入れて、探し、触ったな、と思ったら、クルリと巻き込んで外に引き上げる、という具合。これがほぼ百発百中なので、何度見ても、“おぉー!!”と拍手をしたくなるのだ。また、縫合にもかなり慎重で、必ず、内部(皮下の脂肪)を縫合、そして表皮を糸が外に絶対に出ないように、内部にてこぶが出来る方法で縫合する。出来上がりは、まさにINVISIBLE(目に見えない)だ。オスの猫の手術は一番簡単で、メスの刃だけを手で直接持ち、薄く表皮を切った後、0.5㎜ほどだけ穴を開けて、睾丸を押し出す。しかも傷口は縫合もせず、そのままで問題がないのだ。本当に、名医だぁ…と、私は思い、感動しながら手術を見ている、よだれが、清潔な手術のエリアに垂れないように注意しながら。手術は一日2から3件、それに加えて、歯の治療(麻酔上で)があったり、採決があったり、マイクロチップ植え込みが入っていたりする。お昼ごはんに私がありつくのが、2時頃で、Mr.Brownは立ったまま、奥さん(彼女もVET)の買ってきたお昼ごはんを食べ、紅茶をすすりながら、午後の診療の為に待合室で待っている患者と家族を出迎えに行く。私が昼食を終えてからは、診察の介助をして過ごすのが常だ。また、その病院には、Mr.Brownがレスキューした聾唖(ろうあ)のブルテリア、サファがいるので、彼女を散歩に連れたり、水をやったりもする。彼女の寝床は、犬の病室、ケネルの一つであるが、彼女は耳が聞こえないので、目を覚まして、散歩に連れてってくれと訴える時の奇声は、聞いたことがないくらいすさまじい。これが大抵、手術中に、手術室の向かいで始まるから大変だ。また、周りで手術後、または手術を待っているワンコ達は、とっても不思議がっている。犬とは思えない、人の叫び声にしか聞こえないので。        キャァアァァァァ!!
あと、一日で予約分は終了だが、予約の空いている週に、是非また来たいと思っている。
# by yayoitt | 2004-10-27 05:39 | 動物病院での出来事、仕事 | Comments(0)
幼少の頃の思い出 初恋
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FIRST LOVE 
初恋
私の初恋は、5歳か6歳くらいの時。ベルサイユのバラ というマンガがあったが、その中の、女性主人公、オスカルである。忠実には、漫画のオスカルではなく、宝塚は花組による、ベルサイユのバラのオスカルだ。誰がその時のオスカル役かは知らないが、初代オスカルである。姉達の影響で、ベルサイユのバラ(以後 ベルバラ)の漫画本も読んでいたが、何と言っても、テレビで見た花組みのオスカルにベタ惚れしてしまった。両親がクリスマスに買ってくれたのは、その花組みベルバラの写真集。表紙は、オスカルとアンドレのアップカラー写真で、それを毎晩、自分の枕の隣に置き、ちょうど2人の首が自分の首と同じ高さになるように置いて、布団をかぶせて寝ていた。
♪あぁいぃ、それはぁ、はげしくぅー、あぁいぃ、それはぁ、はかなくぅー♪
などと、保育園児とは思えない内容の歌をいい気分になって歌っていたものだ。オスカルの衣装は美しく、特に、肩のところにヒラヒラぶらさがる飾りに憧れた。また、白の正装で、長い足にぴたりとしたパンツ(横に金の線が入ったもの)は、正直、今でも機会があればいつか履きたいと、思っている。オスカルのことを思うと胸がドキドキして、顔がかっかと、熱くなるのを感じていたものだ。くりくりの長い髪がサラサラと音を立てるように、流れる様子は、実際にそうだったのか、私の想像なのか夢なのか、今としてははっきりしないがその頃の私はいつも母の好みで短く男の子のように切られていたので、手の届かぬ憧れだった。
ある日、前の夜から考え、なんとか長い髪にならないか、と頭を働かせたあげく、翌日の保育園の参観日の日に、紙を縛る黒いゴム(今のように丸くなっていない、一本のながぁいゴムを切って使うタイプ)を右の頭にヘアーピンで留めて行ったことがある。短い髪の中から、太い黒いゴムがビヨヨーンと伸びている様子は、誰から見ても可笑しかったに違いない。それでも、他の園児からの指摘を無視し、その日の最後のサヨナラの歌の時、後ろに立っていた誰かのお母さんから、“あんた、頭にゴムくっついとるよ”と言われ、笑って、ピンごと抜き取ってしまった。それからは家で、夜はいつもタオルをかぶって過ごした。タオルは両耳にかけると、うまくそこでとどまるので、それをさっと後ろに手でやったりすると、自分では本当に、長い髪の毛をもっているようで、嬉しかったのだ。さすがに、保育園へは、タオルをかぶっていくのを両親に止められた。どう見ても、ドジョウすくいの、やすき節に憧れる保育園児としか、他人の目には映らないのだから、仕方がない。やすき節への憧れ、ではなく、ベルバラの熱がだいぶ冷めたのは、小学生になってから。学校が嫌いで、家に帰って来ると、外に遊びにも行かず、必死にテレビを見ていた私。両親は共働きで、年の離れた姉達が中学や高校から帰る時間まで、家で1人で過ごしていたが、その私がセカンドラブに堕ちたのは、またもや、テレビの中の人であった。今度は、男性で、しかもかなり年上。遠山の金さん だ。
♪ちょぉおっと、きぃんさぁん、べらんめぇー♪などと歌っていた私は、おかっぴきの如く鼻をたらして、それを袖で拭っていたものである。金さんが、いかにも一般庶民のように振る舞い、着物の肩をぐいっと脱いで、桜吹雪の刺青を見せると、悪人はさらに怒りを加速させる。
そして、べらんめぇ口調で悪人を見事に退治し、役人の手に渡す。この時点で私は、もらしてしまうほどの興奮に至っているのだが、その後、その頃の裁判所で、“おつぅづぁぁぁー”という声の後に、高価そうな金の襖(ふすま)が両方に開き、長ぁい袴(はかま)を踏み、こけないように、ゆっくり出てくる金さん(殿様?だったかな)を見た時は、もう、私はいてもたってもいられない状態だ。そして、悪人が最後に、金さんの桜吹雪を見て、“おぉぉぉ!おめぇはぁ!”とわざとらしく驚く時点で私は、鼻水どぉぉ、だ。これが毎日少しづつ違うパターンで続く。
大人になってから、映画村だったかはっきり覚えていないが、その撮影場所を訪れた時があるが、もちろん、襖の奥からこっそり、自分で両手で開けて、人がいないのを確認し、大股に歩いて出て来てみた。オスカルに、金さん、私の恋の、始まりだった。
# by yayoitt | 2004-10-26 05:41 | 思い出 | Comments(0)
週末の出来事
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金曜日の夜から、旦那のお姉さんとご主人が泊まりに来ていた。彼らは、もともとここに住んでいて、お姉さんは、私達の大家さんでもある。大家さんは英語で、LAND LORD(男性)、LAND LADY(女性)という。彼らは、土曜日にエーデインバラで友人の結婚式があったのだ。
ご主人はイギリス人で、彼の父親も母親もイギリス人。今回のエーデインバラでの結婚式に、どうしてもキルトが着たい、ということで、金曜日にキルトのレンタルへ行き、一式調達して来た。彼は、イギリス人なので、彼のタータン(タータンチェック柄)は無いので、自分の好きなタータンを選ぶことが出来る。それでも、何か関連のあるタータンのキルトを着たいということで、彼の先祖にさかのぼり、スコットランド人のご先祖を見つけ、その人の名前で、タータンを選んで来た。そして、キルトに着るトップは、蝶ネクタイを結べる黒のタキシード風のジャケット(名称 プリンスチャールズ)ではなく、ジャコバイトシャツ(ハンティング風=いわゆる、昔ながらのシャツ)を選んだ。このシャツは、胸元で紐を結ぶ形の物で、昔のスコットランド人がキルトの上に着ていたもの。映画、ブレーブハートでも見ることが出来る。私の旦那が、キルト一式を揃えた時に、私も彼も、このジャコバイトシャツが絶対にいいということで、彼もこの正装である。結婚式は街の教会で14時から始まり、その後、郊外のお城に移動し、そのお城で、披露宴レセプションが行われたそうだ。アメリカ人のブライドだったので、招待客の半分はアメリカ人、半分はイギリス人だったとか。スコットランドの結婚式ならば、パーティーではケリーダンス(スコットランド民謡の踊り)を楽しむが、そこでは、ケリーはなく、ディスコダンスだったそうだ。他にキルトを着た男性は4人いたそうだが、誰一人、ジャコバイトシャツの人は無く、兄は、かなりご自慢の様子だったらしい(本人と、姉 いわく)。かわいいなぁ。
彼らは夜中1時ごろに帰って来て、ケネルですっかり深い眠りに落ちていたノーマンの歓迎を受け、ノーマンと一緒に応接間の仮ベッドで眠った。ノーマンは、普段、私達のベッドに上がることを禁止されているので、大喜びで、彼らと一緒に布団の上で丸まって眠ったらしい。
私は、ちょっと羨ましかった…。
私と旦那も、旦那の友人ご夫婦(子供が1人)のお宅に招待されていたので、最終バスで帰って来て、やっぱり午前様だった。夕食はおいしくって、もう絶対これ以上食べれない、というほど楽しみ、帰りのバスの中、ずっと、旦那に“吐く、吐く”と訴え続け、叱られた。そして、今朝になって、何百回したかわからぬダイエットを誓ったのである。はぁぁぁ…。
今晩のご飯は何にしよう…?
写真は、お姉さんとご主人。結婚式に出掛ける直前。  
この後、私が働いている靴屋さんに、2人でその彼のキルト姿を見せに来てくれた。でも、彼らは、式のある教会を間違えて、誰一人いない教会に辿り着き、呆然となることに。それでもなんとか間に合い、正しい教会に着いたらしいが…。
# by yayoitt | 2004-10-25 22:23 | 英国暮らしって... | Comments(0)
幼少の頃の思い出 3
泣き虫で、いじめられっこで、余り友達もいなかった小学生は低学年の時代。
唯一、私にとっての友達は、家の向かいの同級生、あけちゃんだった。
彼女の家は裕福で、厳しい父親がいた。私と彼女とは、毎日のように学校から帰ると、会っては遊んでいたものだ。ピンクレディーの、私はミー役、あけちゃんはケー役で、振り付けをして歌ったり踊ったり、また、2人とも体操に興味を示し、必死に側転を練習したりもした。
また、近所にあるヤマハのピアノ教室に通うことを2人で約束し、家に帰って、興奮する胸のうちを両親に打ち明け、なんとかピアノ教室にあけちゃんと行かせてくれと頼んだこともある。
親が私の真剣な思いを尊重してくれて、その翌週から、教室に通うこととなった。
当日の午後、私は急に怖くなって、あけちゃんが迎えに来ても、泣いて行きたくないと親を困らせた。それから毎日、そして数年もあけちゃんはピアノのうでを伸ばし、私は向かいでその音色を聞く度に、この上ない挫折感と嫌悪感、そして後悔をしたものである。体操選手になろうと、毎日あけちゃんの家で2人で練習していたが、ある日、あけちゃんの技が余りに自分のそれより上回っているのを目の当たり(まのあたり)にした時、また、私は色々理由を付けて、もう一緒に体操はしなくなってしまった。彼女は高校時代も体操部で活躍し、ピアノとフルートをマスターし、数年後、学校の先生になってからも部活で体操部の顧問を受け持っていた。私は何をやっても長続きせず、すぐに挫折する、醜いアヒルの子の気持ちで、小学校も中学年になった頃には、彼女の家の前をさっさと通り過ぎてしまう日が多くなってしまっていた。
彼女と私は、同級生だったが、彼女は4月生まれ、私は3月生まれ、11ヶ月の年の差があった。年の差だけが理由ではなく、彼女は長女でしっかり者、私は、末っ子の泣き虫でうじうじ虫な子供。彼女のうちに遊びに行っては、トイレに行きたいと恥ずかしくで言い出せずに、結局おしっこをもらして畳を濡らすような子供だった。それでも、彼女のお母さんはいつも、笑顔で私を迎えてくれた。またある時は、外でかくれんぼをしていて、あけちゃんが鬼で、私が隠れているすぐ側をあけちゃんが通った時、余りの興奮と恐怖感で、おしっこをもらしてしまい、“こうさぁん!”と叫んで立ち上がり、“やっこちゃん、どうしたのぉ”と叫ぶあけちゃんをおいて、家に逃げ帰ったこともある。おしっこを頻回に家でも外でももらしていたが、それを見られることは、この上なく恥ずかしかった。
そんなあけちゃんとの決別は、ある日突然やってきた。
ある日、いつもの様に彼女の家に、鼻をたらして遊びに行くと、玄関の隣の部屋から、彼女のお父さんが出て来た。普段からほとんど笑ってくれないこのおじちゃんを、私は子供心に怖いと思っていた。彼は、私の声を聞いて玄関に出てくると、きつい口調で“あけは、一緒に遊べんぞ”私は、このおじちゃんの前で、またもや、おしっこが漏れてしまう不安と、あけちゃんが遊べない、という意味がわからず、ただ逃げるように自分の家に帰って行った。
その翌日、あけちゃんが、暗い表情でうちに来た時、私は舞い上がって喜んで、つっかけを履き始めたが、あけちゃんは、“お父さんが、もうやっこちゃんとは遊ぶなって。”とだけ言って、背中を向けて帰って行った。履きかけのつっかけを見下ろしながら、何が起こったかわからぬ困惑と、たった一人の友達を失くした絶望で、胸がキュンキュンと痛むのを感じていた。
このことは親にも誰にも言わずに、ずっと自分の中で隠し続けた。その頃、家の玄関には、大きく頑丈な木の机が置いてあり、その下は私がすっぽり入って座れるほどであったから、
ぬいぐるみの犬と猫を抱えてその中に入り、机の引き出し部分に“やっこの家”と表札を貼り付けて、しばらくの間、中で1人で遊んだものだ。しばらく、やっこの家の飾り付けなどで忙しくしていた私だったが、父や母のお客さんが来た時に、玄関の机の下でぶつぶつ喋る子供を不思議に思うのは当たり前で、もう、やめることとなった。
子供とは、小さな体に、小さな脳、そして、抱えきれない繊細な大きなハートを持っている。
全身を使って、その一瞬一瞬を記憶する。小さな身体と、割れそうに悲しみや喜びで膨らむ風船のような心は、時に、赤信号を送ることがある。無口で何も喋らない時の方が、理由を話せる時よりも深く傷ついていることが多い。大人の一言一言、理解できないと、そのまま忘れてしまうわけではないのだ。子供なりに、どういう意味だろうと、考える。想像する。思い込み、悩むのだ。そして、子供は、絶対に親には、自分の落ち込んでる理由は明かせない。
子供なりにプライドと、親を悲しませたくないという、思いがあるのだ。
# by yayoitt | 2004-10-24 22:28 | 思い出 | Comments(0)
幼少の頃の思い出 2
一番上の(9つ離れた)姉が、私がまだ9歳の時に、高校を卒業して、看護婦になる為、京都に行ってしまった。

この姉と、真ん中の姉(7つ違い)は、年子だったこともあり、よく喧嘩をしていた。
この喧嘩の多くは、口喧嘩ではなく、フィジカル(身体を張った)な喧嘩で、まだ小さい私には、2人がかなり命がけで戦っているように思えて、まことに、怖かった。
それでも、2人がよく、私と遊んでくれると、私は、この上ない幸せを感じたものである。
遊びは色々あったが、特に大好きで、今でもありありと思い出すのが、“あんた、そりゃないだろう、かくれんぼ”。まだ5歳、6歳の私が、じゃんけんに負けて鬼になると、家の外に出て、古いガラス張りの玄関の前に座って50数える。そして、家の中に入ると、何故か、真ん中の姉が隠れもせず、コタツに座って漫画を読んでいる。それを、おかしいとも、何か変だとも思わず、大喜びで大声で叫ぶ。“ **ちゃん、見ぃつけたぁ!”
…見つけたというか、そこにいたのだ。すると、その真ん中の姉が顔を上げる。一番上の姉である!真ん中の姉の服を着た、一番上の姉である!“名前が違ったから、だめぇー!”と言われて、私は悔しいよりは、おかしくってゲラゲラ笑う。そして、ゲラゲラ、ヒーヒー笑いながら、真ん中の姉を探す。なかなか見つからない。そして、仕方なく“こうさぁん!”と白旗揚げると、頭上から、ヒヒヒヒヒ、と声がする。私の視界に、普通では入らない天井の梁の部分に足と手を掛けて、スパイダーマンの如く、真ん中の姉が笑っているのだ。
このかくれんぼは、同じパターンで、数回続いた。ある日は真ん中の姉が、ある日は一番上の姉が、服を取り替えてコタツに座っている。だから、かくれんぼ、と言うよりは、“さぁ、私は誰か当ててゲーム”にすぎないのだが、知恵のない私は、真剣に興奮して、顔を真っ赤にしながらそのゲームに夢中になったものだ。よく考えれば、その服装をしていた方ではない姉の名前を言えばいいのだが、そんな賢い子供では、私はなかったのだ。
また、彼女達は年も近くて、よくおそろいの服を着ていたが、これが私には羨ましくて仕方がなかった。ピンクレディーの様に、私には思えたのだ。
小さな古い家の、二階の一部屋を、彼女達は2人で共有していた。私は、まだ学校にも行っていなかったし、学校に入っても、しばらくは自分の部屋は必要なくて、ずっと下の父と母の寝床で川の字になって夜は寝ていた。甘えん坊で怖がりで、しかも心配性の子供だったので、夜いったん目が覚めると、なかなか眠ることが出来なかった。夜中に目を開くと、近くにある何かの物陰が、怪獣に思えてならず、それが動くまいとずっと目を凝らして見続けていたことも度々ある。朝になって、しらじらと窓が白くなってきた頃、それまで怪獣と思って、正義感と恐怖感に震えてにらみ続けていた物が、傍らに積み上げられた母の服の山だった時には、自分を馬鹿だと思うよりは、心底ほっとしたものだ。それでも、次の夜中にまた目が覚めて、暗闇に人の形をした物があったりすると、泥棒と信じ込んでは、“自分はあんたがそこにいること、全てお見通しなのだ”とわざと大きな咳をしたり、“こら”と小声を出したりしたものだ。そんな私は毎晩、母と父の手を握って寝ていたが、夜中目が覚めて、父や母が横を向いて眠っており、もう手をつないでいないことがわかると、わざわざ、ぐずぐず言っては、両親を起こしたものである。
一番上の姉が京都に行って、家に初めて“電話”なるものが登場した。京都から田舎、田舎から京都へのその頃の通話代金は、かなり高い物だったと思うが、ある日、姉からの電話に興奮した私は、その頃、日曜学校に行っており、そこで読んだ本を持ち出して、一番気に入っている物語を長々と読んで姉に聞かせたことがある。どうやって、姉が電話を切ったかはもう記憶にないが、悲しい記憶としては全く残っていないので、多分、最後まで読ませてくれたか、“寮が火事だ”とか言って、電話を切ったのだろうと思われる。
ある夏のこと、姉が京都から夏休みの帰省をするとのことで、数日前から私はかなり興奮していた。母は、“悪いことしたり、泣いてばっかおると、**ちゃんに会えんぞぉ”と私を脅かした。だから子供なりに(と言っても、もう小学生2.3年生だと記憶するが)色々気を付けて何日もおとなしく過ごしていたのだが、前日の夜、何故か、夢の中でトイレに入ってしまい、もう数年間していなかった“おねしょ”どころか、運悪く、“寝うんこ”をしてしまった。そう、その頃の私は、興奮してオシッコを垂れ流してしまう子犬よりももっと純粋?で、興奮して、夢の中でウンコをしてしまうような子供だったのだ。その朝、母に洗ってもらった布団は、待ちに待った姉が帰って来てもまだ、しばらく乾くことはなかった。
# by yayoitt | 2004-10-23 22:31 | 思い出 | Comments(0)
幼少の頃の思い出 1
3人娘の一番末っ子、しかも、2人の姉は、7つ、9つと年が離れており、文字通りの、甘えん坊だった私。幼少時代の、切なく、悲しい、そして、なんとなくみすぼらしい思い出を、私は幾つも抱えている。保育園から小学校低学年にかけて、私はとても内弁慶で、泣き虫だった。
小学校に入ってからの数年間は、ずっといじめられっ子。同じクラスの男の子2人に、毎日、休み時間はいじめられていた。ある時は、髪に、ガムをくっつけられて、泣いて髪を父親に切ってもらったこともある。
また、ある日、席替えをした途端、給食の時間になると決まって、私のイスの下にパンが一枚落ちている、という事件が始まった。担任の女の先生は、何も疑わず、毎日、私を昼休みクラスに残して、他の生徒が外で遊ぶ間中、食べ物を大切にしない、と叱ったものだ。私はかたくなに、“自分じゃない”と訴えたが、先生は聞く耳を持たなかった。パン3枚というのは、その頃の私にとって、簡単に食べれる量ではなく、それでも必死に食べ終わった頃、隣の席の男の子が、“先生、また、パンが落ちています”と声を張り上げると、すぐに涙が込み上げたものだ。また、先生は、習字の時間に見つけた新聞の記事をわざわざとっておいて、その昼休みに、その記事を見せながら私を叱ったことがある。その記事とは、エチオピア難民の子供の写真。7歳という子供ながらに、胸がキュンキュン痛むほど、悲しくって、“自分じゃない”とも言えないほど、ただ泣いたことを今も覚えている。次の席替えと共に、そのパンが落ちる事件は、嘘のように起こらなくなった。
それでも、いじめは続いていたので、私の小学校生活は、暗い、白黒映画のようなものだった。毎朝、どうにかして、学校に行かなくてもいい方法はないかと、早朝から頭を働かせる。
それでも、余り知恵の無い私は、電気ごたつ(まだ電気毛布がなかったので、こたつに布団を掛けて寝ていた)の中にもぐりこみ、隠れてみたりしたが、親が“あれ?あの子は一体、どこに行ったんだろう?これは、今日は学校に行けないなぁ”と思うはずはなく、結局、しくしく、めそめそ、泣きながら学校に行った。学校には、集団登校で行ったのだが、2つ上の背の低い女の子が、毎朝、私を“たまご、たまご”と言ってからかった。我が家では、母が数年、家で卵を売っていたのだ。でも、これに対しては、私は絶対に泣かない!という頑な(かたくな)な決意があり、じっと耐えた。多分、親のことで、からかわれていることに、悲しむよりも、立ち向かおう、という気持ちの方が強かったからだと思う。母は、農協から幾つか卵を分けてもらい、それを家で売ったり、直接お客さんに売りに歩いていたのだ。今考えると、多分、すずめの涙ほどにしか稼ぎのならない仕事なのだが、そんな母の姿を私は、愛していた。
毎週木曜日の夜は、決まったお客さんの家へ、卵を届ける。この夜が私は大好きで、いつも母に付いて出掛けた。大きな川の流れる暗い道を、母と手をつないで通り、小学校を過ぎて、もう少し歩くと、夜9時まで開いているお菓子屋さんがあった。そこで、必ず母は、何か小さな駄菓子を買い与えてくれたものだ。お客さんの家に行くと、ある所には犬がいたり、ある所には、喋ったことのない同級生がいて、覗きにきたりした。道々、はだか電球で白っぽく浮かびあがった道を歩きながら、母と色んな話をした。この情景は、忘れることが出来ない。
その頃、我が家には風呂というものがなく、近くの銭湯に、週2、3回行っていた。そこで見る近所のお姉さんや、意地悪そうなおばさん、そして怖そうなおばあちゃん。ある夜、銭湯の煮えたぎる湯に黙ってつかりながら、向かいで微笑む母の顔を見ていたら、急に、泣きだしてしまったことがある。その頃の私は、しょっちゅう泣いていたので、母も笑いながら、どうした?と聞いたのだが、はっきりとした泣けた理由がわからない私は、恥ずかしさもあり、“学校に行きたくない”と、嘘ではないが、その泣いた理由ではない、言い訳をした。溜め息を吐く、母のふくよかな裸がにじんで見えなくなるまで、涙はずっと止まらなかった。子供とは、実に繊細で、大人が想像する以上に、体験を記憶し、決して忘れず、心に深く刻み付けるものだ。
その記憶は、生涯伴ってくるし、楽しいよりは辛い記憶の方が、鮮明に蘇りやすい。
たとえそれが、どんなに小さなガラスの欠片であっても、器用に、子供は傷つくことができる。
幼少の頃の思い出、切なくて、悲しい、なにかしらみすぼらしいけど、私と共にずっと生きている。
# by yayoitt | 2004-10-22 22:36 | 思い出 | Comments(0)
あんた、見たよね?
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昨日のお店での出来事。1人での店番は、忙しければいいが、お客さんが来ない間というものは、とても退屈である。だからと言って、奥の部屋に引きこもっているわけにもいかず。仕方なく、レジのあるカウンターに両肘付いて、雑誌を読んでいた。しばらく、どのくらい、1人で雑誌に目を通していたかはわからないが、ずっと、下を向いたまま、読んでいた。その間、もちろん、喋ることもなく、むっつり口を閉じたまま。突如、ドアが開き、チーンとドアベルが鳴って、お客さんが入って来た。いつもなら、私から“Are You Okay?”とか、“Can I Help You?”と聞くのだが、彼が、入ってくると同時に、“ちょっとまず見させてね。”と言ったので、私も、うなづくだけだった。彼が色々ブーツを見ている間、私はまた雑誌に目を落としていた。ふいに彼がブーツを持って近くに来て聞いた。“これ、サイズはいくつなの?”ブーツを低く差し出した彼。私はブーツを手に取らず、彼がそれを持ったままで、覗き込んだ。サイズ8とうっすら書いてあるのがわかったので、私は口を開いた。2人とも彼が低く差し出したブーツを見ていた。私が口を開いて、答えようとするよりも早くに、私の口から、大量のよだれが、そのブーツの上に落ちたのだ。多分、雑誌に夢中になっていた上、口を全く開かなかったし、唾液が口の中に溜まっても飲み込まなかったのだと思う。それが、下を向いて口を開いたものだから、一気にまとめて、きらきらと糸を引くように落ちたのだ。しかも、お客さんの彼が見つめる、そして手にするブーツの上へ!!一瞬の出来事で、思わずとっさに私は、そのブーツを手で拭った。そして、ジュルッと残った唾液を吸いながら、“Size 8 です”と答えた。
日本語で“あんた、今の、見たよね?えっへっへ!よだれジョー!”
とか、手で、加藤ちゃんペ!でもするようにおちゃらけて、笑って言えれば楽なのに、どうも雰囲気がそういう感じではなく…。静かに流れる沈黙と空気、そして、私の中で込み上げる きっと場違いな、笑い。必死にそれを抑えて、何も無かったように、雑誌に戻る。そのお客さん、他のブーツを購入したが、さすがに、よだれの垂れたブーツには、それっきり興味は示さなかった。
# by yayoitt | 2004-10-21 22:40 | 英国暮らしって... | Comments(0)
意味が違ってしまった日本語英語
日本語になってしまった英語の単語は沢山ある。最近では、REASONABLE とか、日常で普通に使われる。海外に出て初めて、“あ、この英語は日本語のその意味とは違うなぁ”というものが幾つもあることがわかった。
その例を少しあげてみよう。
UNIQUE(ユニーク)… 本当英語の意味は、“唯一の”“たった一つ”
だから、ユニークな人や、ユニークな靴は、一つしかないわけで、おもしろい、という意味は持たない。もともと UNI には、一つ という意味合いがあり、一角獣はユニコーン、一つに決まった服装はユニフォーム、性別の無い物はユニセックス、たった一つのこの世界は、ユニバースだ。
NAIVE(ナイーブ)… “純真、信じやすい(何でもすぐに信じてしまう、または騙されやすい人のこと)
純真ではあっても、繊細、もろい、優しい、といった意味合いは持たない。よく考えると、シャンプーにナイーブというのがあったが、何となくそんなシャンプーは買うのに抵抗を覚えてしまう。繊細は、SENSITIVE(センシティブ)とか SOFT(ソフト)などが、もっとしっくり来るだろうか。
アットホーム … これはきっと、家にいるように暖かい、とかいう意味で AT-HOME から来たのだと思われる。
しかし、この英単語(アットホーム)は存在しない。もちろん、文章の中で、家で、という at home は使う。だから、英語を話す外国人のおうちを訪れた時、“とってもアットホームな雰囲気”と言っても、意味は伝わらない。
ETHNIC(エスニック)… 人種、民族、という意味であって、いわゆる、エキゾチック、といった意味合いは無い。タイやベトナム、インドやカルカッタ、モロッコ、そこだけがエスニックではない。日本も韓国も中国もアメリカも英国も、そこに違う人種が存在する限り、エスニックなのだ。ちなみに、私達アジア人は、ORIENTAL(東洋の)だ。昔、オリエンタルカレーというのがあったが、よく考えると、日本で作ったカレーだから、その通り、オリエンタルカレーなのだ。私は、いつも、オリエンタルはカレーの有名なインドの辺りのことを言うと思っていた。が、しかし、私自身、正真正銘のオリエンタルな人だったのだ。
# by yayoitt | 2004-10-20 22:43 | English | Comments(0)
行き過ぎたユーモア
スコットランド人の有名なコメディアン、Billy Connolly を知っているだろうか?
彼は、もう61歳になるが、スタンダップコメディーのカリスマと言われるほどに、その人気は凄いものだ。そうそう、映画、ラストサムライに彼は出ていた。トム クルーズに目をつけて、日本へ行く話を持ちかける、ひげのおっさんだ。
彼が、今、人道的、政治的、社会的に大きな問題を引き起こしてしまった。
それは、彼が10月はじめ、ロンドンで行ったスタンダップトークの中のコメントだ。ちょうど、Ken Bigley というイギリス人がイラクで人質になったまま、長い時間が経っていた頃のこと。Billy Connolly は、その人質の話題を、ジョークの中に持ち出した。そして、イラクで人質になっている彼に向かって、アドヴァイスとして、"get on with it".と言ったのだ。
"get on with it" とはこの場合、“もうあきらめてその環境に慣れてしまったら?”とか
“反発せずに、その状況を受け入れろよ”的な意味である。不幸なことに、この数日後にこの人質は、首を切られて亡くなった。Billy Connolly がこのジョークを言った時に、客席からは幾つかのブーイングと、“おい、これは1人の人間の命の話なんだぞ!”という声が飛んだという。しかし、これに対して、彼は(彼がジョークの中で頻繁に使う F**K の言葉で返したそうだ。彼はまた、この人質 Ken Bigley に、年齢がひとまわり以上も違う、若いタイの妻がいることも持ち出したらしい。この頃は、このイギリス人の人質 Ken Bigley がイラクでつかまったまま長い時間が経っており、彼と一緒につかまった他の外国人は何人か首を切り落とされて処刑されていて、英国人の、疲れと憤りと悲しみも募っていた頃だった。
タイミングが悪かったと言うよりは、こういうことをジョークに使ってはいけなかったのだ。
Billy Connolly といえば、そのワイルドなひげと、独特のスコットランド訛りのシャープなジョークで、長い年月、英国人のお気に入りの人物の1人であった。飾らない、気取らない、正直で、言っていいのかどうか、危うい話題も、彼が話すと必ず皆が笑うことが出来た。
また、彼の子供時代は不幸で、2001年に彼自身が正直にこの幼少の出来事を本にしている。スコットランド、グラスゴーの貧しい界隈に生まれた Connolly は、母親 Mamie に捨てられる。3歳で、彼は叔母の Mona に育てられることに、しかし、この叔母はしょっちゅう彼を殴っていた。また、彼の父親 William は、彼に性的虐待を与えていた。ティ―ンネージャーになって、彼は造船工場で働き始めた。テレビでブルース歌手、Pete Seger を見てから影響を受け、楽器のバンジョーを£2.10で買った。その後、あるバンドに入り、そして独立、最終的に、このスタンダップコメディアンとして、成功を収めたというわけだ。今まで色々な、タイムリーで、きつくて、きわどいジョークを次から次へとそのヒゲの下から観客へと送り出して来た。そして、ずっと愛されてきた。そんな Connolly のミスジャッジ、今後の彼のコメディアン生活に大いに影響することは、確かだ。あぁ、Old Billy Connolly、こんな間違いを起こすのは、彼も年を取ったせいだろうか?
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下は、彼のオフィシャルウェブサイト、彼の独特のスコットランド訛りの叫びを聞いてみて欲しい!!          http://www.billyconnolly.com/
# by yayoitt | 2004-10-19 22:45 | 英国暮らしって... | Comments(0)