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癌の告知について (第4章) 文化の違い (下)
英国でも、病気に関する告知は完全に本人にされる。それが当たり前になっている為、敢えて、告知の問題とか考える余地がないくらいである。マイケルと、告知について話し合った時も、“本人の病気のことについて本人が知っているのは当たり前”だと言う。

日本では、日頃から、死に関しての話は“縁起が悪い”“怖い”“考えないようにしよう”と拒絶する部分がありがちでは?

死への恐怖心は、人間誰もが持っていると思う。それは、死んだらどこへ行くのか?とか、地獄があるのか?という死んだ後のことよりもむしろ、生への名残り惜しみ、残していくもの、人々、生活、体…そういったものへの心残りが一番の恐怖なのだと思う。

私だって、怖い…愛する人々や、この世の美しい風景や美味しい食事、素晴らしい自然や動物達と、身体的に別れていくなんて、怖すぎるし悲しすぎる。

こちらの欧米諸国の人々は、その思いは、きっと同じだと思う。では、どうして告知が一般にされて、人々はそれを受け止めることが出来ているのであろうか?あくまでも想像ではあるが、考えうる限りで日本との違いを、文化と言う観点から考えてみたい。

1.過去への思いを余り引きずらない

米国に関してはわからないが、私が英国やオーストラリアで過ごして来て、一番日本人と違うなと思っていることは、過去に関してさっぱりしているということ。恋愛に関してもそうで、過ぎ去ったものは過ぎ去ったもの、という割り切りが早いと思われる。特に英国人は、過去を引きずる態度=そういうロマンティシズムな態度を嫌う傾向が強く、英国映画でもよくわかるように、甘い思い出一杯のロマンチックな映画は余り好まれない。

2.1とも必然的に関連するが、人生に対して、前向きである

過去に縛られず、切り捨てるべきものは早期に捨て去り、新しい人生を送ろうという努力をする。それが自分にとってより良いと考え、信じているのである。

3.個人主義である 

幼い頃から、一個の人として扱われ育てられ、教育を受けており、基本的に他人に対する尊重、尊敬心が養われている。だからこそ、自分自身をも尊重して生きており、自分のことは自分が一番よく知っている、という自身と誇りがある。

日本の場合、“お医者様”の時代が長かったし、今でも、風邪1つで病院に駆け込んでしまう若者もいるだろう、自分の身体は医者が治してくれる、そう信じ込んでいる人は沢山いると思う。
風邪の時、こちらでは医師に診察を依頼する人は、皆無であるといって良い。(ただし、合併症があるとか、高齢であるとかは別) 基本的な態度は、自分の身体は自分が一番良く知っていて、自分で治すもの…なのだ。だから、医者と患者の関係も対等であり、医者が一方的に患者に対して指示をしたり治療を勧めるのではなく、お互いに話し合い、意見を出し合って治療や検査をしていくのだ。

…もちろん、十人十色で、どっぷりロマンチックな人もいれば過去から這い上がれない人もいるし、一概には言えないが、一般にそういう傾向と言うことでご理解して頂きたい。

上に挙げた1~3で私が、日本の医療、告知問題に関して一番大事だと思うのは、3である。日本では医師は、まだまだ患者から敬われ、ちやほやされ過ぎている。

ここに、もう1つ加えよう。

4.年齢、職業、性別による上下関係がない

自分の身体を看ていてくれるのは私自身じゃなくて、お医者様、お医者様にかかっている限り、私は大丈夫…だが、皮肉なことに医者は一人の人間であって、神様ではないのだ。しかし、患者のこうした強い要望と依存、そして期待と羨望が、医師の態度を横柄にしたり、患者との対等関係の代わりに指導権を握ってしまっているのではないだろうか?今の情報社会で、自分の症状を自分で簡単に調べることが出来、また自分で癒す方法もすぐにわかるようになってきた。
この社会の移り変わりが患者の自立を助長するかと言えば、実際そうではないのは、日本人独特の“心配性”“完璧症”“綺麗好き”によるものであり、不必要な過度の情報ばかりが増えて、心配し、そして信じ込み、自らの症状はさておき意思による近代機械を使用した診断を希望して病院に殺到してしまう。

少し話が変わってしまったが、人間、もともとは自然の中で生きていたから、そうは簡単に病気にはならないはずだ。そう簡単に下痢もしないし、風邪もひかないはずだ。生きる生活の周囲には、無数のばい菌が一緒に住んでいるが、これを除去してばかりいれば、抵抗力は身体につかずに、ある時それが身体に進入した時にひどい症状を起こしてしまう。昔は、落とした物を“ふ~ふ~して食べなさい、食べ物は大事だから”と言われたものである。今でも私は、大抵の物は落ちても拾って食べるが、ひどい下痢に苦しんだりすることがないのは、昔から、床のばい菌と共に生存してきたから、である。

…実際、患者と家族、どれほど、心を開いて、主治医と話が出来るだろうか?頭を寄せ合って、膝を合わせて、身体のことを、病気のことを、治療のことを、検査のことを、将来のことを、家族のことを、果たして冷静に話し合える関係は、あるだろうか?

“お医者様の言う通りに致します”の時代は、もう終わったはずだ。だからと言って、“医療者のちょっとした言動に敏感になりすぎ”ても、対等な関係は生まれない。それはそこに、一番大事な、人と人 という相手を尊敬する心が、ないから。
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by yayoitt | 2005-06-30 20:06 | 癌の告知に思う | Comments(7)
癌の告知について (第4章) 文化の違い (上)
オーストラリアへの渡航前に、次章で話したある働き盛りの患者さんとの出会いがあり、癌治療、癌告知にとても興味を感じていた。通信で揃えた癌治療と看護に付いて、独り暮らしの部屋の中で勉強していたこともあった。

オーストラリアでは、通っていた英語学校が斡旋して、日本の元看護師や現看護師をホスピスで研修させるというプログラムに参加し、3ヶ月に渡るホスピスでの研修を受けた。その時の私の英語力は未熟だったので、実際にどのくらい研修内容のことを理解し得たかはいまだに不明だが、大部分は看護師という経験の中の予測で受け流した気がする。

研修が終わると、すぐにホスピス病棟へ出てのヴォランティア活動を始めた。
メルボルンの郊外は丘の上に建つ、それは文字通りの“ホスピス”で、医師から余命3ヶ月(だったと記憶する)と本人に告知された患者が対象で、積極的な病気への治療は行なわず、症状に対しての治療、特に疼痛のコントロールを積極的に行ない、リーガルなドラッグ使用にてのコントロールが中心であった。

病室へは、基本的に家族の面会は随時自由であり、なるべく患者と家族の好きなようにさせるよう、医療者が手助けをしていた。広いワンフロアーの病棟には、猫が数匹、小鳥も飼われており、また家からのペットの面会も自由であったので、私は暇を持て余すと、この猫や鳥達をよく撫でて歩いた。このホスピスの入所者は、メルボルンの街と同じく色が様々で、アジア人のおじいさんもいたし、白人の上品な女性もいた。

建物の中にはキリスト教の礼拝堂があるものの、そこは自由に出入りが出来、宗教の違う人、無宗教の人も色々であったし、神父や修道尼が歩き回ることもあるが、あくまでも個人の思いを主張しての訪問であった。普通の病院にあるようなリハビリ室やX-RAY室の代わりに、音楽療法(ミュージックセラピー)の部屋が設けられ、何百もの様々なテープやCDを持って、テラピストはいつでも入所者の元へと出向いた。また、週に一度はアートの時間が組み込まれており、私達ヴォランティアが中心になって入所者を、猫の寝そべるホールに集めては、一緒にチャーコルで絵を描いた。ある週は10人も、その翌週は3人、とホスピスであるだけに人の出入りも激しく、先週元気に一枚の花の絵を描き終えた女性が、今週にはもうどこにも姿が見えない、とそんな状況であった。絵を描く間はアロマテラピーで、気持をリラックスさせる香りが空気を彩り、ホール全体にはモーツアルトが流れていた。また、研修中にアロマテラピーとオイルを使用したマッサージも習得したので、入所者の希望があれば、手足のマッサージのみ(身体の中心へのマッサージは、高度な学習と訓練がいる為)行なった。

食事は毎回、選択になっており、前菜。メイン。デザートを3~4種類の中から入所者自身が選ぶことが出来たし、午前と午後にはコーヒー紅茶とビスケットが配られ、また夕食前には、食前酒も振る舞われた。

より家庭にいる状態に近く、そして安楽を求める入所者に、最大限それを提供しようというのが大きな目標であり、最大の目的は、疼痛のない苦しみのない、最期を過してもらうことである。
治療は全くしない、と言ったが、酸素マスクと、稀に吸引器(呼吸を妨げる口腔内、鼻腔内の不要物を取り除く為)だけは備えられていた。

日本に比べオーストラリアの文化背景から考えると、ホスピスは人々に自然に受け入れられやすい。

その理由は … 

1. 本人への病気、病状告知が必ずされる

2. 単一家族が殆どであり、子供がいても独り立ちしたら同居をしないのが常なので、病気になっても独居になりがちである

(独居となれば介護が必要であるが、末期となると、こういうホスピスが選ばれやすい)

3. 一人一人が自立して自己の生活を送っており、家族内であっても、家族の一員が病気になること=共倒れ にはならず、残った家族が今まで通りの生活を守って行く

(例えば、小さな子供を抱えた母親が末期であったとしても、その子供を支えながら彼女のパートナーは、彼女のいなくなった近未来を頭に入れた上で普通の生活を営む)

あと、宗教的なことが大きいのではないかと私はいつも思っていたのであるが、実際にキリスト教信者が多いものの、特に若者の多くは無神論者であり、この際に限り、宗教的観点からは省かせてもらう。

ホスピスが人々の生活の中に自然に受け入られている一番の根底は、死が自然に受け入られているからなのであろうと、考える。日本でもホスピスは増えてきたが、まだまだ特別なもの、少し不思議な存在、また、宗教と絡んでいないとそこには足を踏み入れられないような、そんな思いが、人々には実のところあるのではなかろうか?

猫が寝そべり欠伸をすると、木からぶら下がった鳥かごでオウムが鳴く、その横の部屋から、ひっそり運び出される入居者と、泣きながら肩を抱かれて歩く家族…

そんな光景が、毎日、繰り返されては過ぎて行く。
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by yayoitt | 2005-06-29 05:55 | 癌の告知に思う | Comments(2)
癌の告知について (第3章) あるおばあちゃんの残した影
小鳥の声が6階建ての病棟の5階の窓にも聞こえてきた、ある朝。

朝食時になってもカーテンを引きっ放しの、大部屋は窓際の女性患者さんは、70代後半、肝臓の癌で治療中だったと記憶する。本人への告知はしてない癌の末期で、高齢の為に病状は緩やかに進んでおり、積極的な治療ではなくあくまでも対症療法(症状に対しての治療)の為の入院であった。入院最初からとても無口で大人しい女性で、聞かれることに丁寧に答えてはくれるものの、彼女からの会話は殆どなく、歯を見せて笑う姿などは一度として見たことはなかった。
食欲がないので24時間の点滴をしている他は、痛みなども余り訴えられずに、客観的に病状の落ち着いた患者さんで、外泊可能ならばいつでもしてもよい状態であった。

6人部屋の他の女性患者さんが、顔を洗ったり配られた食事に箸をつけ始めた頃、同僚が食事を持って、カーテンの閉まった彼女のベッドに近付いて行った。カーテンの下から、床が透明の水で濡れているのが見える。“xxさん?”ゆっくりカーテンを開けると、点滴台からぶら下がった点滴液は殆ど空で、それの先につながっているはずの老女は、そこにいなかった。綺麗に長い点滴の留置針が外されて、それを腕に停めていたテープで床頭台に貼り付けてあり、そこからゆっくりポタポタと点滴液が落ちていたのだ。履き慣らした雪駄が、窓に向けて綺麗に並べられ、最大に開かれた高い窓から春の暖かく強い風が吹き抜けた。

前夜にいつもと変わりなく巡視の看護師に挨拶をし、同室者に挨拶をし、入れ歯を磨き、髪を整え、カーテンを引いたその老女が、果たしてその夜の静寂の中で彼女が何を見、何を聞き、何を問い掛け、何を掴もうと、その窓から飛び立ったのかは、誰にもわからない。

70代後半の彼女が、どうして自らの死を選んだのか?

生前の彼女を思い出し、病棟での医師と看護師の話し合いが持たれ、どこかに彼女が送って来た信号はなかったか?どうにか事前に食い止められなかったか?回想し考えた。確かに彼女は、口数も少なく、殆ど笑顔を見せることもなく、一見、大人しいか内気な女性であった。病態として彼女が末期ではあるが、病状(彼女の訴えを基本にしたもの)がそれほど悪くないので、個室ではなく大部屋を、週末には外泊も勧められていた。その彼女が、こういう人生の終結を選ぶとは、家族も私達医療者も誰一人、予想もしていなかったのだ。

病気を苦にしての自殺というのは、よく耳にする。ただ、それがただ単に病気を苦にしてであったのか、それだけが自殺の原因であったのかに関しては、誰にもわかり得ない。

この老女のことに関して、色々推測させていただくとすれば...

① うすうす自分が癌だということに気が付いていたのではないだろうか?
        ↓
癌と言うと、治らない病気、癌になったら最後、後には辛い人生が待つだけだ

...彼女の年齢のことを考えると、果たして、そんな風に感じていた可能性はないだろうか?
つまり、癌=人生の終わり=もう価値のある人生は送れない

② 病気を苦にしてではない何か他に彼女なりの思いがあり、これで自分の人生を自ら終わらせたいと思ったのではなかろうか?
        ↓
結局は、この答えは本人以外の誰にもわからない。

...ただ、癌末期であっというだけで、病気を苦にして自殺を選んだと第3者が勝手に決め込んでしまってもいけないと思う。基本的に、死を選んだ彼女を尊重する為に、その彼女の死の原因(ここでは自殺)をも受け止めてあげなければいけない。“自殺”を助長するつもりはないし、できることならば、そういう選択をする人々が一人でも少なくなって欲しいのはやまやまである。
ただそれも、その人の生き方だった、と思いたい...と思うのだ。

自殺は、自然な死ではない...自らの命を奪うのは、もちろん自然ではないがしかし、この医療の発達した人間社会で、“生”自体が不自然に延ばされているのであれば、やぶからにただ“こういう死に方は不自然だから駄目だ”とも言えない気がするのだ。人、個人を尊重する、その人の生き方を尊重するのであれば、やはり死に方も尊重されなければならない。

ただし、やはり自殺に関しては、その人が自身で決断して命を終わらせる前に、その人にとって何か他の形でもう少し価値のある生を過ごすことが出来るのではないかと思われるし、周囲の協力でその助けが出来る場合が多いので、前もって止められるのならばそうしたいし、そう努力したい。

老女が病気を苦にして自ら命を絶った...そう言ってしまうととても簡単なのだが、きっとそこに至るまでの彼女の心には、単なる病気だけではない、誰もが想像をし得ない様々な思いがあったのではなかろうか。戦時中を生き長らえ、80年にも渡って一つ一つの皺を刻んで生きてきた彼女が、どこか別のところに安堵と終息を求めていたことは、その後の私達、医療者にも彼女の家族にも、大きな波紋を残したのだった。

彼女が小さな身体を狭い窓から放ったあの早朝、東の空に広がる燃えるようなオレンジ色を、確かに彼女が見たことを、祈りたい。
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by yayoitt | 2005-06-28 18:45 | 癌の告知に思う | Comments(0)
癌の告知について (次章) ある働き盛りのお父さんの場合 (下)
最期まで本当の病名を知らせぬと言うこと、家族や関わる医療者は、24時間その息苦しい空気の中で患者を見守る。自分の死期を感じながらも、医療者からも家族からも“頑張れ”と言われるからきっと望みがあるのだろうと思う。この苦しみが、前と同じ、ただの肺炎で、乗り越えたらうちに帰れるのではないかと信じる。

この2人の息子を愛していた彼は、最期の数ヶ月の入院中に数回、医師から外泊を勧められたが、ちゃんと治してから帰ると言い張り、結局は最期の数ヶ月を家族との団欒を全く味わうことなく、逝ってしまった。彼の最期に、その朝夜勤中だった私が偶然にも付き添い立ち会うことになったのだが、その彼の瞬間を見ながら私は、色んな思いをし、その後の死に対しての様々な考えを変えさせられた。

彼は最期まで、病気と戦った、そしてある意味、最期まで医療者とも戦い、妻とも戦ったのだ。
ずっと疑いつづけたものを、尋ねても否定されるものを、決して自身の中で受け入れはしなかった。

最後の最期に、彼の愛する息子2人が部屋に入ってきた時、その風景は私の忘れられない光景としてとても鮮やかに残っている。目が見えないんだ、とその前夜に不安を訴えていた彼は、妻の誘導した子供の声を聞くなり、手探りで床頭台にあった眼鏡を掛け直した。多分、その時点で、自分の声がちゃんと聞こえていたかどうかわからないが、彼は子供達を手招きで自身の傍に引き寄せた。

この時点で、彼は肺炎悪化による極度の呼吸困難があり、また内蔵が全体に機能を失っていた為に点滴などで身体に入った水分が外に出されずに体内で溜まっていたから全身が腫れてしまっていた。治療上、なるべく外からの汚れた空気や物を持ち込まないようにしてあった為に、奥さん以外の面会も最小限にされていた彼にとって、愛する息子との面会は久し振りで、しかも、最後だった。

酸素のマスクを震える手で取り除くと彼は、まだ小学生で、そうしたらよいなかわからない、といった感じで立ちすくむ2人の息子に身体を真っ直ぐ向けて、精一杯の声を振り絞り、話をした。
やはり目は見えなかったらしく、息子の手を握ろうとして小さな身体を手探りで探していた。話をし終えると、重い身体を重力にまだ逆らうようにして横たえ、それから数十分後には息を引き取られたのだった。朝の光の差す白い病室で2人の息子が、泣き崩れた母親と、静かに眠った父親を見下ろしたまま、やはりただ立ち尽くしていた。

この光景を最初から最期まで見てきた私は、ある1つの疑惑を抱いた。
人間、どんな風に生きようと、どんなに死に向かう途中で苦しんだとしても、最後の最期は、早かれ遅かれその死を受け止めて他界の準備をするものなのではないだろうか?

それは、生前の彼の闘病生活が心身ともに苦しくて辛かったものであったはずなのに、最後の瞬間に彼はそれを短い時間で理解し受容したように思われたからだ。最後の最期まで望みを捨てなかった…と言い現されるかもしれない彼の最終は、そうではなかったように思えて仕方がない。最後の最期に自分で死を感じ取り、受け止めた…そして、ほっとして眠りにつけた…私には、そんな風に思えて仕方がなかったのだ。ではもしも、その彼に、もう少し早い時期に死の可能性を伝えてあったら、彼は残りの時間をどう生きただろうか?最後の最期だったから、彼は受け止められただけなのだろうか?もしも告知してあったとしたら、もちろん彼は戸惑い、悲しみ、否定し、怒り、何故に僕が?と泣いたかもしれない。そこで彼が治療を断念して家に帰ると言ったとしても、それは彼の生き方、彼の生きる道であったはずだ。病院で過ごした最期の数ヶ月、それがたった1ヶ月になるかもしれなくても、会いたい人に会い、息子達と家で共に過ごし、同じ苦しくても家の寝なれた布団で眠れる日々の方が、彼にとって価値のある時間になりはしなかったか?彼に医師が外泊を勧めた時点で、彼はその申し出を断ったが、その理由の原因は結局のところ、彼には本当の病気、病状が話されていなかったからである。

ある1つの尊い命の話 … もう本人に尋ねることは出来ないので、あくまでも私の推測による意見である。だが、実際に私が彼との時間を過ごしたことで、告知に対しての思いがかなり強くなり、本当にそれで良いのだろうか?と疑うようになったのだ。

今、思い描いても、彼は素晴らしく生き抜いた、と涙が出る。その反面、もしかしたらもう少し、家族との時間を彼が持てていたなら…と後悔もするのである。ローレライの像がきらきら光って綺麗だった、と微笑む彼は、本当にきらきらと光る星になった気がした。
by yayoitt | 2005-06-27 22:17 | 癌の告知に思う | Comments(6)
癌の告知について (次章) ある働き盛りのお父さんの場合 (上)
私が病棟で働いていた時に出会った、ある患者さんのお話。

彼は40代で、奥さんと小学生の息子2人がいて、背が高く、身体も大きく、仕事でも毎日忙しくて彼がいないと会社の成績が下がって困ると言われるほど、いわゆるのりに乗っていた中年男性だった。

彼は、xx病(ある種の癌)を発症し、何度か治療を受けては寛解し、また悪化しては入院して治療を繰り返していたが、今回の再発は手厳しいと言われて私達の病棟へ入院して来たのだ。
彼に対しての説明は、“放っておいたら癌になり得るので治療しましょう”だったと思われるが、最期まで本当の病名は伏せてあった。治療は強くて厳しく、様々な副作用が現れており、毎日それと文字通りに戦ってみえたのであるが、身体の苦しさが増せば増すほど精神的に苛つきもつのり、自分の病気のことを疑いだしていった。

毎日、代わる代わる訪れる看護師の口や態度から、何とか本当の病名を聞き出すように色んな質問や尋問をして来た。主治医とのカンファレンスで、医療者と家族が一致団結して、本人に病名を知られないように気を付けて行こうと話し合いがまとまったものの、その後の、彼の疑惑は大きくなるばかりで、看護師に対する彼の態度自体が変わって来ていた。毎回部屋に入る度に、何とか看護師からポロリとぼろの出る言葉を聞き出そうと巧みに質問をしてくる彼の部屋に入るのは、それは苦痛で、一度部屋に入るとなかなか出られず、彼との気まずい雰囲気の中で、看護師は皆、手を震わせては採血したり留置針を入れるのに悪戦苦闘していたのだ。主治医師に対しての彼の態度はアグレッシブとなり、奥さんに対しても、同じ様なきつい態度、“病気のことを隠しているんだろう”という口論が毎日続くようになり、よく看護師の詰め所に奥さんが来ては、泣いて語ることも度々あった。

この時点で、彼の中の苛立ち、不安、混乱、そういったものを、あくまでも想像ではあるが整理してみると…

1. 治療、軽快、寛解していたのに、ここで再び悪化(もしかしたら)再発してしまったという悲しみ、苛立ち

2. 医師から説明されているように、癌になる恐れがある自分の病気が、癌にいつ変わるかわからない不安

3. 前に比べて病状も悪くなる一方、これはやっぱり、癌なんじゃないか?という疑い

4. 立ち代り入れ替わり来る医師や看護師が、もしかして全員で自分に嘘を吐いているんじゃないか?妻までこの自分に本当のことを言ってくれないんじゃないか?裏切られたような気持ち

5. 4と関連して、そこから人を誰も信じられない、信じていた自分が馬鹿馬鹿しいという不信

私は個人的に何故か、彼に対しての思い入れが非常に強く、何とか彼との失われた信頼関係を築きたいと思っていたので、なるべく彼の部屋に入るように努め、彼との会話の中から自分との接点を見付けるように努力した。その時は既に、彼の部屋に向かうことほど一日の中で辛い仕事はない、と看護師全員が思ってしまっていたくらい、彼と医療者との関係は崩れてしまっていた。

医療者として、彼の苛立ちは理解できるし、身体的に精神的にかなり辛い状態であることもよくわかるのである。しかし、その時何を医療者が一番嫌っていたかと言うとそれは、彼との関係のベースには、“嘘”というものがあり、そこから繰り広げられる会話や、彼の質問に対しての答えをまた自分なりに嘘で答えなければいけないことであったのだ。これは想像を超えて、苦しく、息が詰まり、会話も途切れ、どうしようもなく出口もなく、逃げ出すしかないようなことが正直あるのである。

私が毎日、担当ではなくても顔を出して話(病気以外のこと)をするようになり、彼も少しづつ心を開いて、きつい冗談も言ってくれるようになり、昔行ったヨーロッパ旅行の話なんかもしてくれるようになった頃、彼の病状は、苦しい治療の結果に反してただただ悪化して行く一方だった。
終末に近いある日、奥さんに頼んで持って来てもらったという、ヨーロッパ旅行のアルバムを見せてくれたことがあった。夜中から朝にかけての仕事を終えて、あとは家に帰るだけだった私は、身体を拭きに来た同僚がドアをノックするまでゆっくりと、彼の説明を聞きながらアルバムの一枚一枚の写真を見ていた。肺炎を併発し始めていたので、息をする度にヒューッという湿った音が彼の喉から聞こえるが、肩で息をしながらも一生懸命に、そして目を輝かせながら説明をしてくれた。

“ドイツは綺麗やったなぁ~。もう一度、行きたいなぁ…。あのローレライの像はぁ、キラキラ光ってね、綺麗やったよぉ。”

だいぶ上がった太陽を向かいの病棟の狭間に見つめながら、そうつぶいた彼の目尻には、あっつい涙が、落ちまい落ちまいとしていた。

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by yayoitt | 2005-06-26 23:13 | 癌の告知に思う | Comments(0)
癌の告知について (序章) 叔母ちゃんの場合
ちょうど一年前、2004年の6月25日に私とノーマンは日本を離れてここへ向い、成田まで見送りに来ていた両親と姉は、一目散に田舎の飛騨へと帰って行った。25日の早朝に、成田のホテルで眠っていたら、母の弟の奥さん(叔母さん)が亡くなったという電話が来たからだった。

叔母さんは、癌の殆ど末期に近い状態で初診察に私のまだ勤める病院へ来たのが、たった3月(みつき)ほど前だった。それから検査入院ということで、入院しながら色んな検査と治療を受け、4月のお祭りに外泊して家に帰っただけで、結局そのまま病院で憔悴しながら息を引き取った。

子供の巣立った後の大きな家の中で、叔父さんと、彼女の愛犬のダックスフンドと3人だけの生活だったが、特にこの愛犬は、他の家族メンバーより誰よりも叔母さんになついてかわいがられていた。叔母さんの入院と時期を同じくしてダック(犬の名前)の体の調子が悪くなり、叔母さんの亡くなる3日前に先に昇天したが、そのことを聞いた時には、肌寒ささえ覚えた。

彼女が病院に初診出来た時、ちょうど偶然にも、私が外来で彼女の担当をし、入院の説明や入院後の検査が予約されることなど説明した。

叔母さんは、毎年秋になると、彼女の棗(なつめ)の木が私とマイケルとノーマンの2年間住んでいた家の庭にあったので、大きな袋を抱えて実を取りに来たものだった。彼女の最期の頃、弱気になっては自分の死をほのめかす彼女を見舞いに行っていた私が“おばちゃん、今年の秋には棗を取らんと、うちらが取ってしまうよ”と言ったことがあったが、おばちゃんは口を緩く曲げて微かに微笑み、“その時にはぁ、おらぁ、もうこの世にゃぁおらんで、おめぇらで取ってくれ”と言った。その穏やかな顔を見ながら、どうしても私には“そんなこと言わずに、秋には棗取りに来てよ”とも、“うん、わかったよ。私達がちゃんと棗、取っておくから”とも言えなかった。

叔母さんに、癌という病気についての告知はされていなかった。

担当医が、検査結果を家族に話した時点で、それは台本にあるかのように“本人には内緒にしといて下さい”という家族からの希望が出されたのだ。それから数日後には、彼女の親戚、昔一緒に働いた人、近所の人が、彼女が癌だということを聞きつけて病室に殺到し、誰一人、“癌”などという言葉は口に出さず、そのくせ、叔母さんが冗談紛れに“私のこの病気はきっと癌だ”などと言うと沈黙しては、ただただ励まし“馬鹿なこと言うな”と叱ったりした。

家に置いてきた愛犬のダックに会いたがり、車で30分の自分の家に帰りたがり、自分の寝なれた布団で眠りたがり、周囲からは最後まで励まされ、“早く元気になろう”と繰り返されて昇天していった彼女…。あとに残ったのは、叔母ちゃんと共に行ったダックの影と、本当にこれで良かったのか?という家族の心、そして、1つの嘘を吐くために吐き出された何十もの嘘に疲れきった親戚や周囲の人々の耐えない争いだった。

人々の心のわだかまりの理由 … 

1: 叔母さんに本当の病状を伝えなかったという後悔

2: 叔母さん叔母さん自信の身体のことを、本人だけには知らせずに、周囲だけが知っているということに付いての不自然さ

3: 叔母さんの意思を尊重できなかったことの後悔

4: 叔母さんに嘘をつくことで、周囲が皆(家族、親戚、医師、看護師、友人、知り合い)で同じ芝居をしたことに関する不自然さ

5: 同じ最期の3ヶ月を過せたなら、叔母さんの過したいように過させてあげたかった、という後悔

6: 叔母さんの生を尊重していなかったのではないかという深い後悔


結局、私もノーマンもマイケルも日本を離れた為に、叔母さんが亡くなった後の秋の棗の実は収穫することが出来ず、気になって父親に尋ねたら、誰も棗の実は取ることなく、下に落ちて腐って土に帰って行っただけだと言うことだった。
by yayoitt | 2005-06-25 23:02 | 癌の告知に思う | Comments(8)
music batton
Charlieママさんから、ミュージックバトンなるものを受け取りました。

私はとても新しい物にとてもうとくて、携帯電話さえ持っておらず、巷で流行っているものに対してもアンテナが低いのですが、おもしろそうなのでやってみます。

何々?下の質問に答えてぇ…最後に、5人の人にこれを渡す…?昔あった何とかの手紙みたい。

質問1: Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

答え: 今は仕事中なので、よくわからないけど、でも、音楽をダウンロードとかしたことはありませんなぁ…やりたいけど、怖い…なんで??

質問2: Song playing right now (今聞いている曲)

答え: 今、仕事中なのにラジオを聞いているので、最近よく流れて、とっても気に入っているのが、3曲前に流れました。中国系スコットランド系で黒髪、黒い瞳の彼女は KT Tunstall   、曲名は、Other Side Of The World。確かケートブッシュの歌のコピーだと思うんだけど、題名は違うような…。

質問3: The last CD I bought (最後に買ったCD)

答え: こちらに来る前に日本で誕生日に買ってもらった… CHRISTINA AGUILERA の DIRRTY が気に入って、それの入った“STRIPPED”。でも、私にとってDIRRTY以外は今ひとつ…シングルにしとけばよかった。それか、ビデオ!

質問4: Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

答え: 基本的に繰り返して聴く思い入れのある曲は日本の曲で、朝一番に歌うのもそういった古い歌たちです。

1 … 冬のマーケット  今井美樹  思い出が一杯詰まってるし、聴く度に泣ける
2 … 天気予報の恋人  チャゲ&飛鳥  昔の彼との楽しいドライブを思い出す
3 … 嬉しい楽しい大好き  ドリームカムトゥルー 私らしい歌だと思う
4 … COMMON PEOPLE  PULP マイケルとの出会いの頃の思い出一杯
5 … 別れのワルツ  ショパン  愛する映画で使われたピアノ曲

質問5: Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)

これは秘密に。

下の写真は、KT Tunstall 
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by yayoitt | 2005-06-24 18:12 | やっこは、こんな人 | Comments(8)
DWARVES 無事、帰路に着く
自分の両親を、DWARF = 小人 と呼ぶのも何であるが、ここで見る彼らは、まさに、DWARF という感じだった。

丸々3週間の滞在を終え、今朝、6時半にタクシーに乗って、空港へと向かって行った。

よく晴れて暖かい、気持のいい朝日の中、タクシーの後部座席に座った二人は、出来る限り小さな身体を伸ばして、短い腕を、いつまでもいつまでも、振っていた。

昨夜は、お別れの夕食に、HOWIES という今風スコットランド料理のレストランへ出掛け、色んな話をした。

英国と日本の違い、文化の違い、歴史、戦争のことについて、よく語る私達だが、昨夜は癌の告知について話し合った。

深刻に、それぞれの意見を交わしながら父親が話し出すと、隣に座っていたマイケルが、父の腕をつねったり、鼻をつまんだり、耳をつまんだり、頭を空手チョップする真似をしたりし始めて、それが可笑しくて結局、笑いながらレストランを出た。

夏至を迎えたばっかりの北の街は、9時でも明るく青空で、バスを乗り過ごしたことを言い訳に、ぶらぶら、夕陽のあたるお城を見上げながら、4人で歩いてみた。

“今夜の月は、一年のうちで一番明るい月なんだ”とマイケルが言った。

4人で空を見上げても、まだ月は見えなかったが、雲の切れ端が浮かんだ、水色い空が一面に見えた。

今朝、一杯の“ありがとう”と、一杯の“寂しさ”とを残して、両親の3週間眠った部屋は、空っぽになった。

今日の午後、うちに帰ると、ノーマンとマイケルがいるけど、ニコニコ笑って“今日はな、うんまいランチを食べたのよ”と鼻の穴広げて語る両親は、そこには、いない。
by yayoitt | 2005-06-23 19:14 | 両親が来た! | Comments(12)
ベルギーの旅 ブルージュとゲント 1
3泊4日のベルギーの旅、2泊をブルージュ、3日目をゲントで過し、ゲントで宿泊して、早朝の飛行機でエージンバラに帰って来た。

ゲント(GHENT)はブルージュから電車で数十分、ブリュッセルの空港に比較的近くにある、運河を持つ比較的大きなメディイーボル(中世期)の古い街である。ブルージュは、古い街並みを残した中心街は小さくて、丸1日あればざっと見て回れるくらい、私達も2日間も歩き回っていると、同じ通りばかり行き来したりしていた。こじんまりしていて綺麗でかわいらしく、私の母曰く、とっても女性的な街。それに比べてゲントは、同じく古い綺麗な建物や大聖堂が建ち並ぶが、観光の街というよりは、実際に街が街として起動しているといった感じの、男性的な街。

ゲントへ到着した月曜日は、とにか暑く、気温が30度は軽く超えていたので、ホテルにチェックインするとすぐに母は昼寝にかかった。私とマイケル、そして父は大聖堂やゲントのお城を見る為に、暑い日差しの中、繰り出して行った。トラム(路線電車)が走り、活気がある。ホテルは街の中心、大聖堂や運河、そしてお城にもすぐ近くの場所にあったので、3人でまず大聖堂に入ってみた。この大聖堂、外観は驚くような美しさだとか、素晴らしさだとか、そういう訳ではないのだが、中が思いがけずに素晴らしかったのだ。

ST BAVO CATHEDRAL(聖バヴォ大聖堂)には、様々な絵画や彫刻、また幾つもの小部屋の窓にはそれぞれ違う美しいステンドグラスと絵画があり、特に名高いものとして、1432年に完成した絵画 THE MYSTIC LAMB がある。HUBERT&JAN VAN EYCK の手によって描かれたもので、下の写真をご参照頂きたいが、中心にいけにえの子羊を囲み、人々がその子羊を見つめる様子が見事に描かれている。地下にも洞窟のような大きな部屋があり、幾つもの宗教美術品が置かれているのも見ものであった。私もマイケルも父親もとてもこの大聖堂を気に入り、あとで父が母を起こして再び一緒に行ったのであるが、母も“今まで見てきた大聖堂の中で、いっちばん良かった”と豪語した。でも、正直、それくらいあの大聖堂は見応えがあったのだ。

父と私とマイケルはその後、お城へと向ったが、入場料が結構高かったので、私とマイケルは入るかどうか迷っていると、折角だから入ろうと父に押されて3人で入ったのだが、これまた、おもしろかったのだ。最初は戦いに使われた剣や盾、ヤリや銃などを見ていたが、ある部屋に来ると、観光客が滞っていたので??と思っているとそこには、中世の拷問、処刑道具が置かれていたのだ。一つ一つ見て行くと、信じられないような拷問がなされていたことを思い知らされた。この城の地下には出口のない牢獄があり、そこで様々な拷問や処刑が行なわれていたのだ。

ある冷たい石の部屋、4隅の石には穴が幾つか残っていたが、そこでは、こんな拷問が行なわれていた。囚人を部屋の真ん中に座らせて、首に鉛で出来た輪を着けられるのであるが、輪の内側には鋭い小さなやりが無数についており、その首輪は部屋の四方で紐で引っ張られている。囚人が自らの意思で動かなければそのやりが首に食い込むことはないが、囚人の座る椅子の下、両足部分では薪が焚かれて、囚人の足を燃やすのである。だから、もちろん熱くて苦しみ、身悶える、すると首にやりが突き刺さる…。

またある模型は、細長い木の台の上に囚人を寝かせ、両手、両足をぐ~っと紐で上下に引っ張る、囚人の身体は上下にこれ以上、と言ってよいくらい伸ばされる、その状態で口からどんどん水を流し込み、伸び切った身体、胃も水で一杯になり口まで水が溢れかえるまで水を注ぐ…かなり苦しいらしい。

処刑道具は、やはりギロチンであった。クリスチャンの父親は、こういう処刑や拷問に、キリスト教徒の司教や地位ある人々が関わったことを考え、複雑な気持で1つ1つの道具を見つめていた。

城を出たところで父はホテルに帰って母を起こして大聖堂に行くと、私とマイケルは少しブラブラしながらホテルに向った。その途中で食べたベルギーワッフルは、私の思い描いていた丸い、重たい、硬いワッフルで、とっても美味しかった。父は母と2人分のサンドウィッチを買ったが、サンドウィッチを私が英語で注文した後に、飲み物を頼んでくれと父に言わた時、私は“自分で頼んでみたら”と父に言った。どぎまぎ英語で注文をする父を見ながらマイケルが、私を“意地悪”と呼んだが、父は本当はそれくらいの英語は出来るのだし、咄嗟にさせたのはちょっとかわいそうだったが、どんなことでも父の自信と喜びになるよ!と私はマイケルに訴えた。
あとででも、しみじみ考えたが、やっぱり、私達が側にいたって、今まで母を引っ張って海外を何度も旅してきた父なので、あれはあれでよかった…と思ったりした。

でも、咄嗟にさせたのは不公平でした…ごめん。

長い暑い日差しの中、ワッフルをかじりながらマイケルとホテルに向いながら、本の少しの両親がいない時間だったのにもう、両親のことが気になり、一緒に今晩ご飯を食べることなんか考えている私に気付いて苦笑した。ゲントの大きな運河にかかる、セントマイケル橋を眺めながら、2人でぼんやり午後の暑い風に吹かれてみた。
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by yayoitt | 2005-06-21 02:34 | 両親が来た! | Comments(0)
ベルギーの旅 ムール貝と両親
18日の土曜日に出発、その夜と日曜の夜は、ベルギーはブルージュに宿泊した。両親は以前にブルージュを2度訪れており、今回が3度目、マイケルは大学時代に友人と来たので2度目、私だけが初めてであった。この週末はとかく天気が良く、連日30度を越える暑さ!雲ひとつない夏日和だった。

ブルージュは、昔、港として貿易が栄え、その名残の運河が街を流れており、その後も布織物で栄えたりした裕福な街である。観光客が行き来する街の中心は小さいので、丸1日あれば、十分見て歩けるくらいだ。とにかく街がかわいらしい、建物や石畳の道、まあるい石橋の下を流れる運河…どれも絵になる…さすが日本人観光客、特に女性の観光客に人気がある理由がよくわかる。

父が先頭になり、確かこっちに行くと“マルクト広場(マーケットのこと)だ”とか、“聖血教会がこっちにあって…”と案内してくれた。到着の土曜日は、私が疲れきっていたので観光はしなかったが、夜の涼しい明るい街を歩いてみると、人もまばらでとても素敵だった。

夕食を摂るために裏庭のある、そして、一番大事な、ムール貝のあるレストランを見つけた私達、少し早い時間だったが、裏庭の鳥が鳴くテーブルを囲んだ。両親は、このムール貝が大好き(ベルギーで食べて虜になったらしい)で、メニューを見る前からニコニコ笑って“ムール貝よ、ムール貝”と繰り返していた。酒に弱いが味は好きだと言う父は、マイケルと一緒のベルギーぼフルーツビールを頼み、皆がそれぞれ注文が決まっても、私はメニューとにらめっこしていた。
なぜなら…とにかくヴェジタリアン料理が、ないのだ。どのレストランを見ても、常に同じヴェジタリアンメニュー1つだけ…ヴェジタリアンコロッケ…仕方なくコロッケにサラダを頼み、あとでワッフルを食べるんだと豪語した。

ムール貝は、鍋に一杯、しかももう1個鍋で蓋をして、奇妙な形で登場したが、大抵のレストランではこういう風に運ばれてくるらしい。初めて挑戦するマイケルも、ムールのとりこ…となり、私以外の3人、無言で貝を掴んでは口に運び、掴んでは口に運び…かなり美味しいらしい。コロッケはまずまず、マイケルのフルーツビールは、やっぱり下戸で苦い味嫌いの私には苦いだけで、ちょっとがっかりしたが、ワッフルで挽回(バンカイ)しようと、身構えた。

登場したワッフルは、私の思い描くワッフルと違うもので、長方形で柔らかく、硬さがどこにもなくて中もフワフワだった。どうやら、お店に行っても、2種類のワッフルがあるらしくて、そのもう一方がこのレストランでは出されていたのだ。私やマイケルが好きなのは、もう一方の、丸くて、硬くて重くて、外に砂糖がブツブツついている方…でもこれは夕食の後のデザートには確かに向かないかな?

ベルギーの夜は、スコットランドよりは早く更けるくせに、いつまでも明るいままのように感じられた。ブラックバードがヒュルルリと声をあげ、運河の水は緩やかで、石畳を行く人々は石橋に腰をおろし、暮れない空を見上げていた。4人で暖かな夜の風を受けて歩いていたら、前から男の子が、ビーグルを連れて歩いてきた。同時に母と父は、向かいの屋根の上に見えるコウノトリのようなペリカンが、果たして本物か偽物か、話し合っていた。マイケルと2人でまるでスパイのように、男の子とビーグルを追いかける…ビーグルが臭いを嗅いで立ち止まると私達も立ち止まるが、完全にばれていた。
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結局、ノーマンと同じ様に引っ張り、他の犬に対して喜び勇む様子を確認すると私達は安心して来た道を戻った。

そこには、美しい運河をはさんで立ち並ぶ、400年以上も歴史のある家々の前に2人、母と父がまだ口を開けたまま“あれは本物や、今首が動いたろ?”と真剣に話し合っていた。

下は私達が宿泊した Hotel Ter Brughe の外観
by yayoitt | 2005-06-20 20:04 | 両親が来た! | Comments(0)