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懐かしき銭湯
高校に入るまで、うちには風呂がなかった。だから、近くの銭湯に、子供の頃なら2日か3日に1回通った。銭湯に毎日行くようになったのは、ちょっと色気づいて、好きな男の子が出来た頃からだ。銭湯の思い出は、独特のものがある。
私と家族が通っていた銭湯は、家から歩いて60歩ほどのところにあって、毎晩、特に夕食後は、とても混んでいた。入り口から男女別々で、夏にはドアは開けっ放しで、大きな湯と書いた暖簾(のれん)が風に揺れると、外からは、玄関の上がりたてにある更衣場で、着替える裸の人が、はっきり見えたものだ。入り口を入ると、女性側からは右手、男性側の入り口からは左手の高い所に番台がある。そこには、いつも、その銭湯を営む家族のうち、おばあちゃんか、おばさん、又は、娘(年頃の)が座っていた。今思うと、年頃の若い娘にとって、その番台は、結構、難しいものだったろう。番台からは、更衣場が、全て見渡せるから、男の人の裸を常に見る事となる。番台には、小さなテレビが置いてあり、彼女らは、いつもテレビで、“8時だよ全員集合”など見ていた。番台の、そのテレビの横には、小さなナイロンの入れ物に入ったシャンプーが20円ほどで売ってあった。他にも、あかすりや、かみそり、石鹸も用意してあった。その頃、余り、リンス(コンディショナー)という物には面識がなく、いつもシャンプーだけしていたが、髪がばさばさになることに気が付いたのは、やはり、私自身年頃になり、サラサラの髪を意識し始めてからだった。風呂代は、幾らか忘れてしまったが、髪を洗う場合は、プラス数十円払わなければならなかった。銭湯は、外まで、石鹸のいい匂いがしたが、実際に中に入ると、髪の毛が詰まっていたりして、数箇所ある排水溝の周りは、臭かったりもした。
ケロリンと書かれた黄色い桶(おけ)があり、始めは、座る椅子はなかったので、タイルの上に正座して、身体や髪を洗っていたと記憶する。シャワーが取り付けられたのも遅い時期で、コの字に陳列する洗い場には、赤の“湯”と書かれた蛇口と、青の“水”と書かれた蛇口、
そして何々商店、と、その下に書かれてある鏡があるだけだった。風呂場の真ん中には、冷たいタイルで出来た、背を向けて取り付けられた洗い場が4つあり、このうち、2つは、お尻を湯船に向けて座る格好だったので、私は嫌っていた。湯船は、2つに分かれて並んでいたが、片方が少し深いくらいで、お湯の温度などにさほど差はなかった。それでも、深い方(おっきい人の)は、新しい湯が入って来て、浅い方(ちっちゃい人の)には、水の蛇口があった。
湯は、いつも熱かったので、私はちっちゃい人の湯船に、まず水で少し埋めてから、そろそろと入った。シャワーが取り付けられるまでは、蛇口から熱い湯と水を、ケロリンの桶に入れて、何回も頭からかぶって髪を洗った。私は、物心付いた頃から、濡れた床が嫌いで、タイルの上をいつも、爪先立てで歩いていた。また、隣から流れてくる汚水や髪の毛が気持ち悪く感じて、目をつぶって、なるべく見ないように計らった。排水溝の隣の洗い場に座るのは極力避け、込み合っていて洗い場が開いていない時は、ジッと湯船で息を潜め、潜水艦からジーッと、狙った洗い場を見つめる、湯だったタコと化していたものだ。湯船の中からは、色々な背中が見えた。太った背中。骨ばっかりの背中。曲がった背中。縫った痕のある背中。それぞれの人生を刻む背中。熱いお湯から上がって、真っ赤にゆであがった私の背中は、まだ平らで小さかった。学校で、家で、外で、色々な楽しい、悲しい思いをしながら、その湯船から、大人の背中を見つめ続けていた。ケロリンの桶がタイルに当たる音、お湯が蛇口から噴出す音、誰かの咳払い、音は全て、湯煙の膜の中で反響してこだまし、まるで遠くから聞こえる様であった。時には母と、時には姉と、時には向かいのあけちゃんと入る風呂は、楽しかった。1人の風呂は、リラックスなどとはほど遠く、孤独と縄張り争い(自分ひとりで、勝手に使いたい洗い場を狙っていただけだが)、煮えた熱い湯との格闘、苦悩の方が大きかった気がする。濡れたまま更衣場に出ると、髪を洗っていないのに、湯気で濡れた髪を、番台のおばさんが見ている気がして、いつも、わざと頭をタオルで拭かずに、濡れたまま、うつむいて“ありがと”を言い、寒い夜も、飛んで家に帰って行ったものだ。
銭湯には、長年の私の思い出が一杯、詰まっている。いつの間にか、その銭湯はなくなってしまった。町にあった2、3件の銭湯は、全く姿を消してしまった。あの暖簾(のれん)も、あのこだまする会話や水の音も、ケロリンの黄色い桶も、もう、そこにはない。
by yayoitt | 2004-11-25 00:47 | 思い出
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