涸沢に到着した頃、既に午後の3時を廻っていた。山の上で、日没は急にやってくるから、常に数時間は、早め早めに行動しておかなくてはならない。ちょっとした時間の遅れが、取り返しの付かない事故や事態を引き起こすからだ。
ヒュッテの前では、数人の男の人が私達を出迎えてくれたが、彼らは大学の医学生達で、 夏の間を、医師や看護学生と共に山の診療所で過ごしながら、色々な経験を積んでいるのだ。笑顔のあの人は、彼と一緒に山を降りてきてくれた学生達に、私の同僚2人のリュックをおねるよう指示し、彼は私の、重い“飛騨牛”の入ったリュックを私から優しく下ろし、自分の肩に下げてポケットに両手を入れ歩き始めた。ここから険しいザイデングラードを登って診療所に着くには、約2時間近くかかる。到着は5時を廻ってしまうが、それ以上の時間のロスは避けたいと、彼が私達に説明する。水を口いっぱいに含み、大きな瞳で“ソフトクリーム、ソフトクリーム!”と叫ぶ私と同僚達をなだめ、ソフトクリームを食べたらすぐ出発と彼は私達に約束し、私達は飛び上がり、リュックを他人に預けて身軽になったものだから、軽々と岩のごつごつした道をヒュッテに向かって走り出した。 “あ、あぁぁぁぁぁあ”また、同僚のピーちゃんが立ち止まった。 鼻を彼女の背中にぶつけながら私も止まる“何々?どうしたの?” 彼女が泣きそうな声で、指をさす方へ目をやると、「本日のソフトクリーム、終了」とヒュッテの窓ガラスに大きな貼り紙がしてあった。肩を落として私達3人は、こちらを見ている彼と学生、そして2人の友人の方へショボショボ帰って行った。 “ソフトクリーム売り切れやって、はい、行きましょう…” すると誰かが言った“今晩の夕食は、皆で飛騨牛の石焼きやで!” 触覚がピーンと立ち上がった女性3人が、再び元気を取り戻し、“焼肉、焼肉、焼肉”と繰り返す。涸沢の赤や黄色、緑のテントがポツポツと点在する様子を、徐々に遠くに見下ろしながら、私達8人は、ただただ険しいザイテングラードに近付く山道を登って行った。今回の登山、女性は、私と同僚2人であったが、1人はピーちゃんで私と2つ違い、もう1人は、私とピーちゃんの働く病棟の係長さんで、私達と同じくらいの娘さんや息子さんがみえた。この女性は、年齢の違いに関係なく、私の大親友の1人と言える人で、私は他の誰にも出来ない話も、彼女だけには全て話していたし、彼女はいつも奔放的な意見を私に言ってくれるのだった。日本にいる間、彼女ともう1人、私よりひとまわりほど年上の同僚の女性の親友がいて、 毎月“美女3人会”と名づけては、この3人で夕食を食べに行ったり、何かとちょこちょこ集まっては、コーヒーを飲みながら話をしたりしていた。不思議な運命で結ばれたこの友情であるが、とても強くて、でも束縛しあわず、ただ力となる、かけがえのない友達なのである。2人は、2008年に、2人でスコットランドへ来るぞ!と約束してくれているので、私もその時までは、あきらめずにスコットランドでの生活を続けていなくてはならないと、思っている。 涸沢から360度グルリとそそり立つ、前穂高岳、奥穂高岳や涸沢岳、私達の目指す診療所は、奥穂高岳と涸沢岳の間の“コル”(ちょうど馬の背中の様に、低く平らになった部分)にある。ザイテングラードは、岩ばかりの道で、3点方式(必ず四肢の3つが岩につかまっている状態)で登っていかないと危険な道である。油断すると、滑落して命を落としかねない場所が沢山あるのだ。私が、高山を彼が去る時に、お別れのプレゼントとしてあげた緑の山シャツを着て、先頭を彼が進む。仕事場でずっと見ていた姿、小さな田舎町で見慣れていた後ろ姿、そして、初めての夏の彼の自由な姿を見ていた。 私の記憶のその人は、いつも全速力で生きていた。 人間関係も、仕事も、遊びも、眠るのも、沢山のエネルギーを注ぎ込んでいる、という印象があった。忙しい毎日の中で、6ヶ月過ごした田舎町での暮らしを愛し、再び人込みと喧騒の大きな街へと帰って行った彼だった。 彼には、自由な風景がよく似合う。優しい笑顔は、大きな自然の中でもっとよく混ざり合う。都会の時間の流れより、ゆったり流れる時計のない暮らしの方が波長が合う。前から感じていたけれど、私のリュックを下げながら岩場を行く彼を見上げて、私はしみじみと感じていた。 その夏の再会は、2人を優しく山の上へと導いた。7月終わりの穂高は、深い青空に白く湧き上がる雲を引き入れ、短い夏の始まりを精一杯に歌うのだった。
by yayoitt
| 2004-12-19 02:36
| 穂高の恋人達
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