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絶やしたくない話 … 戦争の体験
 
 もう、何百回も、その話は聞いたよ!

と、老いた親が繰り返して語る昔の話。

憎らしい、そんな言葉を容赦なく浴びせてしまう子供たち。

私も、そんな子供のひとり …。

けれど、母が語る話の中で もう、何度も聞きました とは言わない話がある。

彼女が思い出せるだけ、私も聞かせてもらいたい、そんな話がある。

それは …

彼女の、戦争中後体験の話だ。

両親が通うキリスト教会の牧師によるブログから、お借りしました。

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 見えない戦火をくぐりぬけて


 ふるさをを想う時、セピア色の月日の遠吠えが、
 やがて軍歌の響きとなって瞼へ押し寄せる。

 昭和十六年、第二次世界大戦が勃発し、十八年七月父は戦死した。
 
 忘れもしない、父に赤紙が届いたある日の夕餉どき、
 母はせめて夫に…と、苦労して手に入れた牛肉ですき焼きを用意した。

 初めてのご馳走に、私たち子どもは我先にと箸をつつく、とその時、
 「父ちゃんに食べさせにゃ…父ちゃんおらんようになるんやで」と云って
 大声で泣いた母、そして父の出征の朝、二歳の弟は足に火傷を負っており、
 母は八ヶ月の身重だった。

 せめて駅までの見送りさえままならず、握り拳を膝に打ちつけて泣き伏していた母。

 思えば、山々に囲まれ、擂鉢の底に湧いたような小さな私の町にも、
 「戦争」の余波は、長い間悲しみの旋律を響かせた。

 昭和二十年八月、日本はついに敗れ去り、母の首へ結びつけられた白木の箱、
 戦争への憎しみと、父の無念を抱きしめた母は、その日から修羅場の鬼となり、
 四人の子どもを「てて無し子」と呼ばせるものかと、死にもの狂いで働いた。

 ある夜、めったと寄り付かない叔父や叔母が、四十ワットの明かりの下に集まってき、
 泣いて断る母の手から、四歳の弟と二歳の妹を里子にと連れ出してしまった。

 母は、毎日里親の近くまで出かけて行き、わが子の姿をひと目見ようと
 電柱の陰に身をひそめた。

 ある日、わが子と目が合った…と、家の庭へ駆け込んで行き、
 身を捩りながら号泣した母の姿を、私は忘れることができない。

 その後二、三年して弟は「寝小便をする」を理由に、
 妹は「養父にいじめられているのでは…」との近所の噂を耳に、
 母は弾かれたように出かけて行き、二人を連れ戻してきた。

 その帰り道、母の背中で妹が、
 「これからおばちゃんのこと、母ちゃんって呼んでいいの?」と聞いて
 母を泣かせたものである。

 その夜、母は子どもたちを膝元へ寄せ
 「これからはな、たとえにごし(米の砥ぎ汁)を飲むようなことがあっても、
 お前たちを手放さんでな」とひとりひとりの頭を撫でさすったものである。

 我が故郷は、山河こそ残ったものの人々の心はやつれ、精神的焼土となった。

 また、全国から親戚縁者を頼って、大勢の疎開者があふれた。

 そのうち生き残った兵士の帰還が始まり、
 近所の兄ちゃんも半病人のようになって帰ってきた。

 しかし、彼を待ち伏せた「ふるさと」は二重、三重苦を彼に負わせたのである。

 五年ぶりの我が家はすでに父母はなく、待ってくれているはずの新妻は去り、
 他家へ稼いでいた。

 天井を仰ぎ、雨戸をさすりながら、風のみが吹き抜ける空っぽの家の中を
 巡り歩いている兄ちゃんの姿を、近所の人々とおろおろしながら見つめていた日…、
 まるで、色彩のない万華鏡を覗くような遠い日の記憶である。

 その後、人が変わったように働き通し財を盛り上げていった兄ちゃんと同じく、
 わが町も戦禍あとかたもなく装い、人々の心の中から歴史の黒点は
 消え去ったかに見える。

 思えば、かつて私たちは全世界へ向けて「戦争放棄」を宣言した。

 二度と銃を持たない、我が子を、戦場へ送らないと云う叫びを、
 この大地へ食い込ませたはずだ。

 しかしいま、戦場への道標が、戦争への狼煙が足元から上がろうとしているのだ。

 見て見ぬふりをしてはいけない。

 口をつぐんではならない。

 戦争の悲惨と愚かさを、拳を震わせながら語り続けていかなければと思っている。
 
 私たちは、二度とふたたび、ふるさとを、山河を悲しませてはならないのだ。

by yayoitt | 2014-08-08 18:04 | 遠くにて思う日本
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