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癌の告知について 終わりに
命の燃えつきは、自然であるべき、と考えていた私。過度な延命は、すべきではないと思っていた私。今も、確かにそうは思っているものの、そうとは強く言いきれないところもある。

近代社会、特に医療技術が高度に発展している国々では、生きているうちに既に人々は延命の処置を受けている。人間の手が加えられて生き延びている人々の最期を、いかに自然な死に…と思っても、それは難しいことなのかもしれない。

ペットも同じで、野生動物とペットにして良い動物ははっきり分かれており、犬、猫のように人間が手を加えてその姿をも変化させて来ている動物は、人間と共に暮らすための動物であって、野生に返す動物ではない。だから、人間が彼らの生活の面倒を看て、食事を与え、病気になったら、怪我をしたら、最大の努力でその治療をすべきなのである。そしてある意味、そのペットの死は、人間主人の掌の内にあると言ってもよいと思う。だから、治らぬ病気で苦しむペットを、どれだけでも早く苦しみから救いたいと、安楽死させるのは、ペットにとっては自然なことなのかもしれない。ある意味、ペットにだって、死を選ぶ権利があるのではないだろうか?

動物のことに話がそれてしまったが、看護婦時代から現在の動物愛護への自身の移り変わりの中で、死に対する気持ちや考えは、正直、二転三転しているのである。でも最終的にいつも私が思うことは1つ。

人間、どんな死に方も、それは尊重されなければならないということ、ただし、同じ人間の手によってその命を奪われるのは例外。

多くの病人が、病院で命を燃やし尽くす…自らの病気、予後を知っている人もあれば知らない人もある…家に帰りたいと望む人もあれば、病院でちゃんと最期まで直し続けたいと臨む人も。
その人の命については、本人の意思に背いて周囲が無理にそれを変えたり、無視したりはできないはずである。

“あなた”の一生は、一度きりであって繰り返しがきかず、誰のものでもなく“あなた”しか歩めず、“あなた”らしく生きていかなければならないのだから。

だから、本当は“死に方”も、“その人らしく”あるべきなのではないだろうか?周囲が、家族が、医者が、親戚が、機械が、決める生の終末では、何か、寂しい気がする。もちろん人間の心だから、自分の人生の終わりが見えた時に、苦しみに打ちひしがれて悩み悲しみ、もしかしたら鬱状態で自らの命を絶とうとするかもしれない。しかし、それもそれで、その人の選んだ人生のあり方。

今の時代、大切なのは、

1. 医療者と患者の信頼関係であり上下関係ではない

2. 家族が患者1個人を“受け止める”こと

家族が告知しないで欲しい、と希望する中に、本当に患者本人だけのことを考えてそう思うのか、それとも、告知した場合に、その後苦しむ患者を見るのが辛い、怖いから、という、患者家族側の気持ちが入り込んではいないだろうか?

3. 人が人を、敬う気持ち

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今まで1週間にわたり考え、文字にして来て、そして多くの人々と話し合って来てみて、確実なのは、人それぞれの思いや希望があることで、一概にこれがいい、これは駄目、の問題ではないと言うことだ。家族が告知しないで欲しい、と願うのを受け入れる医療者も、相手を尊重してのことである。ただ、本人にも、聞いて欲しいと思うのだ。告知するしないの段階になって、それを聞くことは不可能だから、元気なうちに、病気などする前に、または病気になった機会に、家族で、そういう話はしておいた方が良いと思う。告知をして欲しい、という家族に対して、家族は、最期まで患者の全て(受容に至るまでの5つの段階)を受け止める自分自身への準備も、しておいて欲しいと思う。
by yayoitt | 2005-07-02 17:01 | 癌の告知に思う
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